← トップページへ
← 第54回 「古書往来」目次へ 第56回 →

古書往来
55.後藤書店で最後に手に入れた本と雑誌から
─ 『私のコスモポリタン日記』と『校正往来』 ─

本文は広告も入れて48頁。頁を子持ち罫で囲み、活字の組み方も二段、三段、四段と変化に富む。著名な文人が寄稿した短い校正や誤植についてのエピソードや事例を数多く載せ、各々に神代の解説も付けている。せっかくの機会だから、独り占めせずに(?)ここで内容を若干紹介しておこう。

まず、高島米峰(明治39年〜昭和9年。仏教家で随筆家。晩年には東洋大学学長を勤めた人だが、壮年期には30年程、丙牛出版社を経営していた)の「南條文雄博士の校正癖」から。
高島は、梵語学者、仏教学者として世界的に有名な南條博士が「他人の著書を読んで、誤植を発見した時、どうしても、その正誤表を作って、著者に送らずには居られないという性癖(と言っては穏ではないが)があった。」と書き出す。これが綿密周到な正確さのあるもので、学術書はもちろん、一般向き随筆集まで、博士の手に渡ったが最後、必ず堂々たる正誤表が出来上る。高島氏も自分の著書にそれを頂戴して恐縮したが、氏が経営する出版社から出した木村泰賢『印度六派哲学』や『原始佛教思想論』を、その堂々を期待して贈呈したら、果して、それが届いた。
「しかし、考へて見れば、南條博士に書籍を贈呈するといふことは、無報酬で校正して貫ふといふやうなもので、随分虫のよいことだといふことになるばかりでなく、忙しい博士を、そのために苦しめることにもなるわけだと思つて、その後は、わざとそれを差控へて居た。」
そして最後に今は亡き博士を偲んでいる。博士のこのくせは、考えてみれば、神代氏も常日頃、同様にやっていたことだから(後述)、さぞ共感して掲載したことだろう(その証拠に二段組みで扱っている)。

吉野作造は「第四階級と第三階級」という短文を寄せ、前年に『中央公論』に寄稿した巻頭論文「普通選挙論」は名編集長、滝田樗陰君が口述筆記してくれたものだが、出来上った雑誌を見ると、「プロレタリア」の意が「第三階級」となっている。自分は明確に「第四階級」と話したのだが、考えてみると、滝田君がフランス革命時代の平民を「第三階級」と呼んでいたのを記憶していて、早合点して親切心から直してくれたらしい。しかし、それでは論旨が徹底せず、論争にもなって困惑した、と書いている。これはよくある編集者の勇み足であり、本来は著者に確認すべき事例であろう。

さらに新村出の寄稿では、「単語誌」という題目で、「単語の起源と沿革」と原稿に書いて出した文句が掲載紙を見ると、三号活字位の大きさで「沿革」が「鉛筆」となっていたので、微苦笑しつつ早速神代氏を想起したという。これは達筆を読みまちがったのだろう。「そこで記念に鉛筆で原稿を書いて差出さうと思つたのでしたが、やつぱりペンで書きました。」と新村氏らしい、しゃれた文章で締め括っている。
その他、紅葉や木村毅、佐佐木信綱、喜多壮一郎、内田魯庵なども短文を寄せている。コラム的に例えば「奥付の誤植」「内容見本の校正」「校正刷の本」など細かい事例も沢山載せているが、その中で、「誤植の珍書」から、開巻第一行の第一字目が誤植である書物を紹介しておこう。

田中貢太郎の短篇集『岡崎巷談』にこうある。「大正十年四月のことであつた。江州安土の城の大奥にあつた梅の間へ、春若と云ふ信長の近侍がやつて来た。」と。記していないが、正解は天正、であろう。これは目立つので著者も出版社も困惑したにちがいない。
ついでに、奥付の誤植といえば、本誌にある事例ではないが、与謝野子の『みだれ髪』の初版では、鳳子となっているのはよく知られた事実だ。

最後にコラムの片隅に載っていた、明治36年金尾文淵堂刊の発禁詩集『社会主義詩集』で名高い児玉花外の「天の川と神代君」と題する詩が面白いので引用しておこう。神代氏もさすがにおもはゆいのか、四段組の最下欄左端に収録している。

英国の詩人バイロンは
「夜の書」「他界の書」に
彼れが陰鬱にして且美麗なる
唇よりこの熱句を吐出セリ。

冴えた宵、天の川群星を仰ぎつつ
校正術の名人、神代種亮君は
宇宙の誤植をも見出さんとす。一枚の天の紙
今雲のインキに投入す、人間の金ペン。

二人は明治文学研究の縁で親しかったのだろうか。

巻末のシンプルな宣伝文のみの広告頁には、岩波書店や新潮社、春陽堂(=『校正の研究』を出版)、日本評論社(神代も編輯に参加した『明治文化全集』の版元)などの他に、大阪の高尾書店や柳屋画廊も載せているのが面白い。高尾書店は以前、この連載で一寸書いたように、神代が借金に追われて大阪へ逃れ、高尾彦四郎氏宅に一週間も寝泊りさせてもらったというエピソードもある位、交流が密だったからだろう。『書物往来』も店で販売していた。
神代は明治文学の蒐集家として、斎藤昌三や石川巌らと並んで、古本業界でも名高い存在だった。

<< 前へ 次へ >>

← 第54回 「古書往来」目次へ 第56回 →

← トップページへ ↑ ページ上へ
Copyright (C) 2005 Sogensha.inc All rights reserved.