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古書往来
55.後藤書店で最後に手に入れた本と雑誌から
─ 『私のコスモポリタン日記』と『校正往来』 ─

ここで私は岸百艸の名前が出てきたので、そういえば百艸の随筆中にこのアオイ書房も出てきたかもしれない、とふと思い出した。百艸については、前述の『神戸の古本力』のトーク中で、手に入れた古本目録『書彩』をもとに私や林氏も語っているし、巻末に彼の、戦前戦後の神戸の古本屋群像を活写した回想記も収録しているので、参照してほしい。

写真(コピー)「書彩」(モノクロ)
「書彩」表紙と裏(モノクロ)

後に林氏はサンケイ紙連載の「古書サンケイ堂」でも、そのガリバン刷の味のある目録+随筆誌『書彩』を紹介している(平19、10・3)。

再び簡単にふれると、岸は俳人で、戦前は小説や映画脚本も書いた才人であり、戦後、元町通り一丁目、南京町の入口に古本屋「百艸書屋」を開店し、主に俳・歌・詩書や歴史書、限定版を細々と扱っていた。店は神戸の文化人の溜り場だったらしい。おそらく昭和30年代前半頃までは店があったことは『日本古書通信』の岸の文章から確認できる。葵書房にしてもそうだが、私のまだ10代前半の頃だから、当時は知る由もない。『歴史と神戸』の百艸追悼号から推測して昭和37年に亡くなったようだ。

その百艸が『書彩』に載せた「雲母虫往来」(昭29年、第八号)の中で次のように書いているので、引用しておこう。
「宇治は茶どころ、その茶を主賓に、レコードを少々ばかし、一番退けものにされてゐたのが古本……この奇妙な店が「葵書房」中村智丸君の采配によって喘いでゐた。/私とは、いち早く、文学的な、やくざな共通項が、彼との交流を深めたやうである。彼は新聞人出であり、私は文学崩れの落武者なのだ。彼は病的におせっかち性であり、私は天性のものぐさ症である。私は、彼の手の中から美事キュルケゴール選集をものしたり、他に芥川、鏡花、夢二、句集、歌集等を掠めて帰るのである。─(中略)─ 確に、私の方が、古書に対しては一日の長があるらしく、彼の間隙をせしめてゐた。自尊心の強い彼のことであるから、決して、私に獲物を攫われたとは、思ってゐないだらうが、それは全くの事実なのだ。」と。
さらにその頃の中村氏は神経を尖らせて苛々している日々もあった、と百艸は回想している。古本業を早々に断念し、他の商売に転じたことが氏にはかえって幸いしたようである。こうして私は、中村氏の本との出会いを通じて、戦後しばらくの神戸の古本屋店主同士や文学者との交流を垣間見ることができた。中村氏の他の私刊本もいつか手に入れたいものだ。
以上、思わず長くなってしまったが、もう一冊、閉店セールで思いがけず手に入れることができた最大の収穫についても書いておきたい。

二階の棚に、すでに沢山売れてしまったからか、ポツポツとだけ平で置かれた本や雑誌を点検しているうち、グラシン紙に包まれた薄い、やや縦長の雑誌が目に止った。
題字も右起しの達筆な手書き文字ではっきり読めないが、何やら胸さわぎがし、とり急ぎ中をのぞくと、本文は和紙袋綴じ、最初の頁冒頭に文章の一部を筆で校正した図版があり、その右端に小さく「校正往来 第二冊 昭和辛未年(註 六年)五月刊)と見えるではないか!(あとで下段の解説を読むと、それは紅葉の『金色夜叉』続篇中の一節に紅葉が朱を入れた初校校正刷りであった。)

「校正往来」表紙(左)と第一頁(右)
「校正往来」表紙(左)と第一頁(右)

それで改めて表紙を見ると、確かに「校正往来」と読め、その下に「The PROOF-READER」とあり、目次が縦に並んでいる。下には「神代種亮編輯 日本校正協会」と記されている。おお、これはあの<校正の神様>と呼ばれた神代が出した、書物関係の雑誌として名高いやつだぞ。ドキドキしながら後頁の値段を見ると、何と800円也。これの3割引きだから、安すぎる! 私は他の人に獲られたら、エライコッチャと、しっかり捕えた。
二冊しか出なかった、この貴重な雑誌を古本で手に入れることなど、生涯ないだろうと思い込んでいただけに、感激も一入であった。それに私はかつて『誤植読本』(東京書籍)なる珍しい(と思う)アンソロジーを編集して出した者なので、この雑誌にはとくに興味があるのだ。それにしても、今までよくも売り切れずに私を待っていてくれたことよ。

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