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古書往来
50.三国一朗の戯曲と青木書店のこと

「すこし枯れた話」カバー
「すこし枯れた話」カバー

ところで、私は年譜から三国氏が編集者の経験もあったことを知ったが、偶然、前後して読んだある本によって、年譜にも出てこない編集者(見習い)としてのエピソードを知ることになった。その本とは、少し前に均一本で手に入れた高橋義孝『すこし枯れた話』(昭59、講談社文庫)である。この本自体、とても読みごたえのあるエッセイ集で、例えば「文房具を買う夢」「わが幻の書斎」「風変わりな愛読書論」など、読書人に格好の文章も多い。この文庫の解説をしているのが、他ならぬ三国一朗氏なのである。

解説は「ぴんと背筋の伸びた、剛直のようで実は嫋(しな)やかな文章、それは私が高橋さんのお書きになるものを拝見するたびに思うことだ。」という、見事な文章で始まっている。そして、氏は高橋氏の東京帝大文学部の後輩に当るが、独逸語は大の苦手だった、と述懐する。三国氏が東大へ入った年の12月、大東亜戦争が始まり、「繰り上げ卒業」の第三波で、昭和18年6月末に卒論を提出する。そして、「ああ、あの昭和十八年の七月、八月。この二ヵ月という月日が、私にとってなんと愉しい日々だったことか!」と語り出す。「というのは、農学部にいた一友人の叔父さんにあたる人が青木書店というこぢんまりした出版社の社長をしていて、私が卒業直後に入隊するまでの二ヵ月間、そこで働かせて下さるというのである。」と。その出版社は九段の一口坂にあった。
さらに「小島烏水氏や深田久弥氏の「山」にちなんだ文芸書、「ふらんすロマンチック叢書」という翻訳書シリーズなどを中心に、統制下もまずまず良心的な本を戦前から出していた青木書店の名は、私も高校時代から知っていて、サント・ブーヴの『我が毒』やベルトランの『夜のガスパール』などの青木版邦訳書も少しは持っていたのであった。」と続けている。書名など、よく覚えていたものである。出版史に興味のある私は、こんな文章に出会うと、俄然、注目してしまう。以後も引用が長くなるが、貴重な内容なのでお許し願おう。


「入隊前のわずかな月日でも、こうして心優しい人たちばかりの、こぢんまりした出版社で働けるのが嬉しく、私は武井さんという編集長から命じられるままに、印刷会社、製本会社の作業場などを元気に走りまわり、ときには著者、訳者の先生方のお宅へも参上したが、あの一時期ほど働くことが愉しかった経験は、いま思い出しても空前絶後だ」とも回想している。編集長は若い三国氏を信頼していろんな仕事を頼んだようだ。
その訪問先の中でも、とくに忘れ得ぬのが高橋義孝先生宅であり、この本を読んでいて、「わが幻の書斎」に描かれている書斎こそまさにその時の書斎だったと思い当り、「そうだ、あのとき校正刷りを持ってお邪魔したのは、まさにこのお家だったのだ」というひそかな叫びが、私の胸に湧き上がってくるのである。」と記す。そこで、当時めったに口に入ることのないマスカットと二十世紀梨を若い奥様からさし出されたという。
「時代はすでに急変し、青木書店の目玉出版物も、いち早く「ふらんすロマンチック叢書」から「獨逸ロマンチック叢書」に転進していて、私がその出版社で最初に言いつけられた作業もノバーリス『青い花・ザイスの学徒』(小牧健夫訳)の初版本から誤植を探し出す仕事だった。だからこそ新米の私にも高橋義孝先生のお宅へ伺う機会が与えられたわけで、そのとき私が高橋邸へ持参したのは、たしか一冊本の『ドイツ文学史』(残念だが原著者名が思い出せない)の翻訳の校正刷りだったはずである。」青木書店の出版傾向をちゃんと押えた叙述だ。
高橋先生邸への訪問はこの一度切りで、氏は最後に、果してその本が無事出版されたか否かさえ、確かめる術もないまま、外地の軍隊へ入営して行ったことを記している。

引用に終始したが、このような体験談、エピソードは戦前の出版史の一寸した生きた証言になっていて、さらなる探索の手がかりにもなる。
私はまずとにかく、ここに出てくる本の原物を少しでも見てみようと思い立ち、中之島図書館に電話して、青木書店の本二、三冊を予約し、出かけて行った。出してもらったのは禁帯出本で、表紙も再製本されていて、元の装幀がよく分らず残念だったが、一冊は小林秀雄訳の『わが毒』(昭14)である。
奥付によると昭和14年の時点では、青木書店の住所は「東京市淀橋区諏訪町一〇八番地」になっている。発行者は、青木良保である。装幀者はあの六隅許六(渡辺一夫)で、トビラのタイトル周りが、渡辺氏がよく使う西欧古版画のコラージュになっている。ラッキーなことに、本書の裏広告には「ふらんすロマンチック叢書」の既刊がラインアップされている。その主なものを列挙しておこう。

ゴーチエ『ロマンチスムの誕生』渡辺一夫訳、スタンダール『ラシーヌとシェイクスピア』佐藤正彰訳、ドラクロア『日記』河盛好蔵訳、ラマルチーヌ『瞑想詩集』三好達治訳、サンド『若き日の思い出』杉捷夫訳、ミュッセ『戯れに恋はすまじ』飯島正訳、それに中島健蔵『ロマンチックについて』もある。(これは私も古本で見たことがある。)訳者はいずれも一流のフランス文学者ばかりだ。


さて、もう一冊、図書館の検索では三国氏の記した高橋義孝『ドイツ文学史』は出てこなかったので、代りにリクエストしたのが高橋著『獨逸浪漫派』(昭18、3000部)である。これは序文によれば、パウル・クルックホーンの同名本を高橋氏が訳述したもので、翻訳ではなく、原著の不必要な引用文などをかなり省略し、説明の足りない部分を補って簡明なドイツ浪漫派の手引きとした、という。
この奥付を見ると、「昭和十八年十一月二十日発行」となっており、三国氏が校正刷りを届けたのが、昭和十八年の七〜八月だから、三、四ヵ月後の刊行日と丁度符合している! 『ドイツ文学史』は、この本のことだったのだ。三国氏の記憶していたのは仮タイトルだったのではと思われる。(タイトルは大抵ぎりぎりになって決まるものだから。)昭和18年時点では、三国氏も書いているが、出版社の住所は「麹町九段三丁目七番地ノ四」になっている。有難いことに本書裏広告にも一頁のみだが、既刊出版物が計21点も載っている。昔の編集者は今と違い、まめに裏広告を作ったものである。そのうち、邦書も13点ある。主なものを紹介しておこう。

今日出海『日本の家族制度』、中島健蔵『文芸と共に』、岡本かの子『巴里祭』、楢崎勤 長篇小説『蘆』、尾崎喜八『高原詩抄』、深田久弥『山頂山麓』『山の幸』、前川美佐雄『頌歌 日本(やまと)し美し』、獨逸ロマンチック叢書第一巻、ヘルデルリーン、吹田順助訳『ヒュペーリオン』などである。

「獨逸浪漫派」検印
「獨逸浪漫派」検印
「わが毒」検印
「わが毒」検印

これを見ると、編集部に外国文学と山岳書にとくに力を入れる人がいたのが分かる。両書とも、検印にも凝っている。
その他に、原稿作成中たまたま拾い読みした野口冨士男の『感触的昭和文壇史』の中に、野口氏が岡田三郎の世話で『文学者』に3回にわたって掲載した小説「風の系譜」400枚を、昭和15年7月に青木書店から定価二円で二千部出してもらった、と記されていた。以上は、簡単な青木書店のスケッチにすぎず、まだまだ調査不充分だが、戦中にこのような小さな良心的出版社が活動していたことを確認できた。なお、昭和15年には、筑摩書房が発足し、中村光夫『フロオベルとモウパッサン』やヴァレリィ、吉田健一訳『ドガについて』などを出し、後者はすぐ版を重ねている。この頃は日本でフランス文学の人気が高かったようだ。(戦後にも一時ブームがくるが。)

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