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古書往来
59.原稿用紙と鉛筆の話 ─ 作家たちのこだわり

さて、前述の安岡氏の嘆きと一寸共通するエッセイに、吉行淳之介の「原稿用紙」がある(『石膏色と赤』講談社、昭和51年)

「石膏色と赤」表紙
「石膏色と赤」表紙

実はこれから取り上げるエッセイはすべて、私が以前、思いついて「私の机」というテーマで日本の古今の文学者や学者が書いたエッセイを古本で集中的に蒐めた折、<机>の周辺の文房具や原稿用紙について書かれたものも含めていたので、そこからピックアップしたものなのだ。(私はそのようなテーマのアンソロジーを造れば面白いと思うのだが、出版社はどうも興味を示してくれず、お蔵入りのままである)

吉行氏はこう書き出している。
「昭和二十四年に書いた処女作の「薔薇販売人」の原稿が手もとに残っている。その原稿用紙は、四百字詰、黄色い罫のルビつきで、左隅に「神楽坂、山田製」と印刷してある」と。当時氏は市ヶ谷に住んでおり、国電の隣りの駅にある小さな文房具店に足を運び、一、二年に一回、千枚一包みの原稿用紙を買ってきた。それを今まで三十年近く使っているという。この店の「先代の主人が原稿用紙をつくるのに情熱に近いものをもっていた」らしく、吉行氏と意見が衝突したこともある。氏が四百字詰原稿用紙の中央の余白にある太い二本の横線をヤボな感じがすると言っても、主人は頑固に頷かなかった。しかし、それを消費する人間には全く無関心らしく、氏が小説家であることを知らなかったという。物造りの職人気質の人だったようだ。
それは一向差つかえないのだが、オイルショックで紙不足になったとき、多摩川の自宅からわざわざ出かけていったのに、二代目の主人は長年の客にもかかわらず百枚しか売ってくれなかった、とぼやいている。
ちなみに氏は友人の庄野潤三にもこの山田屋の原稿用紙をすすめ、今も使っているはずだ、とも書いている。


ここで大分以前、目録注文で入手し、殆ど積ん読のままだった松尾靖秋(国文学者)の『原稿用紙の知識と使い方』(南雲堂、1981年)を引っぱり出して参照してみると、作家がよく使っている原稿用紙の店として、満寿屋、山田屋、相馬屋(=新宿、品川にある由)があげられており、山田屋の原稿用紙の愛用者には尾崎一雄や武田麟太郎がいたという。

「原稿用紙の知識と使い方」カバー
「原稿用紙の知識と使い方」カバー

ついでながら、松尾氏は満寿屋の主人、川口ヒロさんの随筆、「原稿用紙の話」(『婦人公論』昭和48年4月号)を本書で大幅に参照している。それによれば、極めて多くの作家が満寿屋のものを使っており、例えば前述の安岡氏、川端康成、井上靖、水上勉、吉田健一、小林秀雄、佐野洋など枚挙にいとまがない程だ。(実際は34名の作家があげられている。後述する吉村昭氏もその一人。)ヒロさんは元々文学少女で、女学生の頃、早稲田大学近くの喫茶店「さんざし」によく出入りし、丹羽文雄と知り合った。昭和15年頃から紙の統制で若い作家たちが原稿用紙に不自由するようになったが、実家の紙屋でつくっていた砂糖箱や包装紙の紙の在庫がかなりあったので、丹羽氏や青山二郎の依頼もあって原稿用紙を作るようになった。それが若い作家たちに次から次へと広まっていったという。
また戦前から相馬屋の原稿用紙も有名で、今も野坂昭如氏、瀬戸内寂聴さんなどが愛用している、と記している。
ヒロさんは又、高見順氏は罫線の色がグレーのものしか使わず、丹羽氏はグレーとグリーンの中間の色のを使っていたと語っている。各々の作家独自のこだわりを示すエピソードである。

罫線といえば、当代の人気作家、渡辺淳一氏も『創作の現場から』(集英社文庫、1997年)に「書斎の周辺」を書いており、そこに原稿用紙のことが出てくる。用紙はまず四百字詰めが条件で、白地にシルバー・グレイのうすい罫線で、個人用につくったものを使っている(罫線が赤とか濃いものは目が疲れて馴染めないという。)
さらに渡辺氏は鉛筆で書くので「よく消しゴムを使うため、何度消しても千切れない、しかも滑りのいいやや厚手の紙」に限るという。鉛筆は、氏は筆圧が強いので、当りのやわらかで指が疲れない、ハイユニの2Bを愛用している。(前述の岡井氏と同じ。)また、「書き直すことが多いので、質のいい消しゴムが必需品で」、トンボのプラスチック製の消しゴムを使っている。
さらに氏は巧みにこう表現している。「わたしの原稿用紙には消しゴムの粉がところどころ残っていることも多いのですが、それは私が小説を書いているときの迷いと溜息のあらわれ、といえるかもしれません」と。
ただ、鉛筆だと、パソコンと同様、その創作過程での訂正や推敲の跡は消されて分らなくなるわけだが。

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