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古書往来
60.小寺正三の人と仕事 ―― 高橋鏡太郎再見

今回も偶然ながら、私の住んでいる豊中出身の文学者、小寺正三氏(大正3年〜平成7年)を取り上げてみよう。  秋は大規模な古本展が目白押しである。だが、私は遅れをとってばかりで、どうも近頃、初日の朝から行って競って掘出し本を探そうという意欲に欠けているようだ。十月下旬に開かれた四天王寺古本祭りの際も、初日の午後おそく、ようやく出陣した。


「月の村」表紙

どの店だったか覚えていないが、黒っぽい本がぎっしり並んでいる間に背のごく薄い本が挟まれていたので、どんな本かと抜き出して見ると、それはあっさりしたブルーの枠の中にタイトル文字だけが書かれた表紙の、小寺正三句集『月の村』(まるめろ叢書1、大阪・星雲社、昭和23年)であった。私はとっさに思い出した。この著者は大分以前、萬字屋の均一本コーナーで入手した『へそまがりの弁』(全線社、昭和61年)というエッセイ集を出した人だと。

その折、私には全く未知の人だったが、目次を見ると、川端康成など文学者との交友もいろいろ出てくるのが分ったので、買って帰ったのだ。拾い読みしてみると、なかなか味のあるエッセイ集で、この人が川端氏の年下の縁者に当ることも分った。ただ、それ以上に関心が深まらず、長いこと積ん読のままであった。

「月の村」見返し
「月の村」見返し

さて、この句集をひらくと、見返しに「かがまりて人をながむる秋祭 正三」と自句が直筆で書かれている。さらに日野草城が「著者へ」を寄せ、伊丹三樹彦が序を書いている。これはいいぞ、と思ったが、値段の表示がない。恐る恐るレジに持っていって尋ねると、300円也。私はしめしめと思い、急いで買い求めた。

帰って早速、まず「巻末に」を読んでみると、私の今までの関心対象と意外に深くつながっていることが分った。これはどうやら小寺氏の第一句集のようである。日野草城は周知のように新興俳句の提唱者で小寺氏の師に当る人。「巻末に」は次のように書き出されている。

「昭和七年の春、早稲田に入学すると同時に私は早大俳句会に籍をおき、原石鼎氏の指導をうけた。学校をでて新聞社に入ってからは同人雑誌に拠つて主に小説を書いてゐたが、僚友として高橋鏡太郎君(傍線、引用者)を識るにおよんで再び俳句について強い関心を呼びおこされ、同君の推薦で「多麻」に加へてもらった。敗戦直前大阪へ帰ってからの私は伊丹三樹彦、播本清隆君らとともに、草城先生の指導をうけるやうになり、今日におよんだ」と。

何と、私が以前、この連載で紹介したことがある高橋鏡太郎とも交友のある人だったとは!さらに若い頃、小説も書いていたのだ。俄然、小寺氏への関心が高まってきた。次いで、伊丹氏の序文を読むと、冒頭には「畏友小寺正三との交情は無論俳句を通じて始まったものであるが、いまはもう心友として相許す間柄だ」とある。そして安住敦を中心とする「多麻」時代は、小寺氏は詩、小説、評論に傾いていて、俳句の方はごく軽い気持でつくっていた、と書く。続けて長くなるが引用しよう。小寺氏の風貌や人柄を描いているところだ。

「終戦も間近だった昭和二十年の春、正三は東京から引上げてきた。恰度その頃、思ひがけず除隊した私は、早速豊中の郊外熊野田の里に彼を訪れた。彼は絣の着物姿で現はれたが、私の予想した文士臭さなどは微塵もなく、どちらかといへば青年書生に見紛ふぐらいの若々しい風貌の持主だった。何を話したかはもう忘れて了ったが、人間正三の淳朴な魅力はこの時すでに私を強くつよく惹きつけたのである」と。

続いて、彼の誠実さ、深い人間愛、強い正義感をも指摘している。さらに続く箇所には「かれは文学者であると同時に、古本屋であり、また市会議員の現職にある」とあり、私はほお!と驚かされた。伊丹氏は日野草城先生の指導のもと、小寺氏と同人誌「まるめろ」を発行し、日曜ごとに氏の経営する閑古堂(傍線、筆者)を訪ねたが、その度に、小寺氏は創作句を示して虚心坦懐に批判を求めたという。前々回に私が紹介した寺本知氏の職歴と大へん似ている!しかも寺本氏が書いた小説のタイトルが「閑古堂日録」なのだ。同じ豊中で古本屋をしていたのだから、当然お二人はつきあいがあったに違いない(後述)。面白いことに、伊丹氏も昭和20〜25年、阪急伊丹駅近くで、古本屋「伊丹文庫」を開いていた人だ。(昭和25年から阪急塚口駅近くへ移店する)伊丹氏とは、生涯にわたって親密な交友を続けており、句にも度々登場する。

 

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