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古書往来
47.神戸の詩人同士の友情を読む
─ 林喜芳と板倉栄三の詩集 ─

さて、例によってここで、林喜芳氏の生涯をその著作や年譜によって主に出版関係を中心にまとめておこう。
明治41年、神戸市兵庫東川崎町七丁目八十四番屋敷(現中央区)に生まれる。14歳、神戸市立楠高等小学校を卒業前にやめ、神戸市水道課の給仕となる。大正13年、16歳の折、神戸の雑誌(『神戸新聞通信』など)、新聞専門の印刷会社、小国開文堂に文選工として入る。ここは当時、「地獄活版」とアダ名されていた所で、残業は月に70〜80時間、深夜から時に朝3時まで働いた。翌年、そこを辞し、元町六丁目の井上紙店印刷部に勤務。この頃、生涯の友人となる文学青年、板倉栄三と出会う。板倉から高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を借り、ダダとは何かを知ろうと、図書館で神原泰の解説的な本を借り出す。
印刷所では竹中郁の詩集(神戸海港詩人倶楽部刊の『黄蜂と花粉』か?)や詩同人誌『羅針』を印刷していた関係で情報を得、板倉とともに関西学院第一回文化祭に紛れ込み、竹中郁の詩の朗読を聴いて新鮮な感じを受ける。
板倉も一時店で働いていた元町通りはその頃、先端的文化の通り路で、赤マントの画家、今井朝路のうわさを聞いたり、三星堂喫茶部に出入りした。又三宮神社境内にあった喫茶店「カフェ・ガス」では三科の岡本唐貴や浅野孟といった前衛的な画家や文学者、演劇人などがたむろしていた。
昭和2年、板倉と同人誌『戦線詩人』(B6判20頁、100部)を発行。この頃から、能登秀夫(詩人)、及川英雄(役人で小説家、戦後『半どん』主宰)、大橋真弓(詩人)、戸田巽(探偵作家)、中川信夫、十河巌(朝日新聞記者を経て、戦後、朝日会館館長)、浜名与志春(詩人)、竹森一男(作家)らを識り、交流するようになる。同年秋に板倉らと『裸人』を創刊したが、県警本部に呼び出され「『らじん』は『レーニン』と読ますのやろ」と根掘り葉掘り追求され、ギョッとする。始末書を書かされやっと解放された。

昭和5年(22歳)、竹森、浜名、板倉らと『魔貌』(まぼう)を竹森が上京したため、東京から創刊。表紙は北園克衛に頼み、A5判アート紙の美しい雑誌だった。その後、井上用紙店を退職し、露天商や鉄工所に勤めて終戦を迎える。戦後も占い業や雑貨、メリヤス肌着販売などを経て、昭和34年、大栄印刷営業部に入る。昭和51年、68歳まで勤務。その後は執筆活動に専念する。62歳時、北野豪一と『藁(わら)』(B5判・四頁)創刊、14号まで。昭和49年(66歳)、若き日の仲間、戸田、中川、竹森、板倉(=その頃寝たきりとなる)とともに『少年』を創刊する。これは林氏が平成6年に亡くなるまで、89号(?)まで続く。昭和56年、『わいらの新開地』を冬鵲房から出版するが、これは五百部刷って二百部を書店に出すやすぐ売り切れ、三百、五百部と増刷し、当人も驚いたという。

実はこの本の元になったエッセイは神戸市消防局の月刊広報誌『雪』に五年間連載されたものと知って、懐かしく思った。というのは私の実家は畳表の製造卸し業をしていて、私が小学校6年の折、工場から出火し火事になって以来、消防局とつながりができたらしく、毎月、この『雪』が家に送られてきていた。それで、高校、大学の頃、時々拾い読みした憶えがあるのだ。服部正氏の連載エッセイなどが印象に残っている。残念ながら、林氏の連載はもっと先のことで、読んでいないのだが、『雪』を通して早くから御縁はあったとも言えよう。
それにしても、初めてのエッセイ集がこれほど売れたのは、林氏の人望のゆえか、昔から交友関係が幅広く(うらやましい!)それらの人々の口コミの力も大いに作用したからにちがいない。実際、自伝的文章を読んでも、新しい就職口は旧い同僚や友人の紹介や口利きによっていることが多い。その誠実な人柄が信頼されたからだろう。この出版でエッセイストとしての力量も評価され、以後、晩年になって前述のエッセイや詩集も次々と冬鵲房や摩耶出版社から出版する。(皆、神戸の出版社刊であり、東京の出版社からもし出ておれば、もっと全国的に注目されたかと思われる。)昭和51年、脳卒中で倒れたまま半身不随、寝たきりで十年余の友人、板倉氏の詩集『歯抜けのそうめん』を、竹森一男と相談して出版する。昭和61年、神戸市文化賞受賞。平成6年、86歳で亡くなっている。林氏は今後ももっと再評価されてほしい神戸の詩人である。

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