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古書往来
47.神戸の詩人同士の友情を読む
─ 林喜芳と板倉栄三の詩集 ─

神戸の民衆詩人、林喜芳(きよし)氏のことを知ったのは二年程前、元町の古本屋で偶然、氏の『神戸文芸雑兵物語』(1986、冬鵲房(とうじゃくぼう))を見つけて読み、その文体に魅了されて以来である。それで私は、この連載で、詩人でもあった映画監督、中川信夫を紹介した際、その中川氏と若い頃から親交のあった林氏が本書中に中川氏も登場させているので、簡単に本書を紹介した。しかし、そこでは林氏を焦点に当ててはいないので不充分な書き方しかしていない。

「香具師風景走馬燈」カバー
「香具師風景走馬燈」カバー

その後も私は林氏の著作を古本で見つけては求めてきた。手元にあるのは『わいらの新開地』(1981、冬鵲房)、『香具師風景走馬燈』(1984、同)、それに『林喜芳詩集』(1986、摩耶出版社)である。入手できたら安心したのか(言い訳ですが)、前二著は積ん読状態で、まだ拾い読みしかしていない。いずれも氏が長年体験してきた諸事実と関係資料を織りまぜた、自伝的要素の大きい好エッセイだ。

後著はA5判、64頁、松尾茂夫氏の編集で、絶版になっていた林氏の私家版詩集『露天商人の歌』(正・続、各100部)全篇やその後の詩作品が収録されており、巻末には版元の発行者、三宅武氏が作成した詳しい年譜も付いている。
こちらは通読して、丁度、昨年七月に神戸元町の海文堂書店で林哲夫さんや北村知之君と三人で行なった「神戸の古本力」なるトークショーで、本書を一寸紹介し、テーマにふさわしいと思ったので、「露天商人の歌」の中から「古本を売ってみる」という詩を朗読させてもらった。(後、みずのわ出版刊の同名の本にも掲載。)ここでは、その折紹介できなかった、本書の最後に出てくる詩「めぐりあい」を引用させていただこう。

ぼくののぞいた
古本屋
そのうすぐらい片隅に
詩集のぼくがはさまっていた
ほこりをかぶって
いろあせて

(せんどぶりやな
林さん
いつまでも生きていろよ)

しわがれた声

いったい お前は
誰 なんだ

この古本はたぶん『露天商人の歌』のことだろう。苦労して自分で造った詩集は、自分の息子であり、分身でもあり、愛着深いものだ。それにしても、古本屋と詩人はよく似合う。それもさびれた小さな古本屋が……。


さらに、昨年11月、芦屋市立美術博物館で初めて開かれた古本展、「モダニズム周辺」の目録の中に、街の草さんが出品した『林喜芳半個詩集』(1988年、摩耶出版社)を見つけたので、すぐ注文した。これは林氏が80歳の折に出した最後の詩集で、私はそれまでこの本の存在を知らなかった。古本展の最終日にようやく会場に駆けつけ、本を漁っていたら、街の草さんから声が掛かり、本書が当っているとのことでその場で手渡して下さった。他にも注文者があった由で、ラッキーなことである。

古本展「モダニズム周辺」芦屋市立美術博物館会場にて
古本展「モダニズム周辺」
芦屋市立美術博物館会場にて

本書も同判、92頁の本だが、全体が「I 人生・皿まわし」「II 老人性痴呆症候群」「III 半個詩日記」に分かれ、最後の章に神戸新聞に五ヵ月にわたり連載された「わが心の自叙伝」が34頁も収録されていてとても読みごたえがある。最後に神戸の詩人、中村隆氏の「石になって生き残れ ─ 林喜芳小論 ─」も付いている。このタイトルの文字は、本書の詩篇の最後に、書下しで加えられた「深海魚 トツ ─ またはわが眼疾 ─」という長篇詩の最後の句からとられたものだ。

「林喜芳半個詩集」表紙
「林喜芳半個詩集」表紙

これは林氏の詩にしては珍しく、目の見えなくなった私が深海魚トツになって海底に沈み、そこで生きる心象風景を幻想的、童話風に唱ったもの。ここでは最後の10連のみ紹介しよう。

トツは天国に近づきすぎたのである
境界を越えたが不運
フカかサメか獰猛な無頼漢が
一気にトツを呑みこんだのだ
視力のないトツの不覚
念じよう 遅くとも
石になれ
石になれ
ひたすら念ずる
それしかない
神も仏も海底には存在しない
意思だけが
石になって
生きのこれ

この詩は目が殆んど見えなくなった晩年の林氏の心境をトツに託して語らせているのだが、平穏無事な海底で悟りきった生活を送っているかと思いきや、最後は中村氏が書いているように「この世へのはげしい執着は、表現者にとっての業(カルマ)なのか。」とも捉えられる魂の叫びの言葉だ。

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