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34.詩人、黄瀛(こうえい)と日本の文学者たち

この稿を書いている最中に、私は黄瀛と深い交流のあった草野心平にも、確か彼のことを書いた一文があったことを思い出した。急いで探してみると、それは以前、この連載でも紹介したことがある『詩と詩人』(和光社、昭29)に収録されている「黄瀛との今昔」であった。心平氏の、例によって臨場感あふれる一文を一気に読み、黄瀛像が眼前に鮮明に浮び上ってくる思いがした。

「詩と詩人」表紙
「詩と詩人」表紙
それは1946年6月に執筆されている。書出しは、戦争で生死不明だった黄瀛と、終戦後南京にいた心平氏が、七、八年ぶりで思いがけず再会するところから始まっている。そこで共通の友人、張君がかけてくれたブルーダニューブワルツ ─ 最初に黄瀛と会った昔日、神田神保町田沢画廊で流れていたまさにその曲 ─ をききながら泪がこみあげてきた。二人共、再会の不思議さからほぐれると、「彼の独特な饒舌が始まった。日本の男や女の友人に就ての消息を私からききながら、それぞれにピリッとした批判をそえて、話しはなかなかつきなかった。」

それから、記述は黄瀛との最初の出会いへとさかのぼる。
氏が広東の嶺南大学の学生だった頃、ある日、レターボックスに未知の名前の手紙が入っていた。それが、黄瀛の手紙で、「一体あなたは日本人なのでしょうか中国人なのでしょうか、という親愛とも問合せともつかない文面だった。」なぜ、そんな手紙が届いたのか、氏はその年(大正十二年)、二十歳の折徴兵検査を受けに日本へ帰る途中、長崎をぶらつき、ふと立ち寄った古本屋で、詩誌『詩聖』(第一書房刊、大正12年、18号)を見つけ中をのぞくと、そこに黄瀛と自分の詩が並んで出ており、やっと来信の意味が分ったという。
その後二人は『銅鑼』の同人として文通し交流を深めるが、氏が大正14年、中国での排外運動のあおりを受け帰日したとき、東京で迎えてくれたのが黄瀛だった。「到着した列車の窓から顔を出していると丼パナマ、ワイシャツ、朴歯の高下駄の少年がやってきて『キ、キ、キミ、草野君?』これが彼との最初であった。」黄瀛が中学を終え東京で受験勉強中の頃である。それから約一ヶ月黄瀛の下宿に居候していた。その頃の黄瀛を「彼は誰にも愛されていた。甘さとしぶさと淋しがりと楽天のなかの時たまの孤独と。」と独特の心平節で描いている。

一方、前述の小冊子で森谷氏は、黄瀛も大正15年9月号の『日本詩人』に華々しい「草野心平論」を寄せ、その中で「おお、南方の花、草野心平よ!/郷(おんみ)の上に多幸あれ。郷はまことの廣東の龍章旗、青い月夜、彩の曙、/たくたくとひらめく情熱の旗章(しるし)である。」と誉め称えたことを紹介している。

終戦後、心平一家は南京城外の畳一畳の部屋で五ヶ月過したが、黄瀛は度々訪ねてくれたと記している。最後に、「日本へ行きたいなぁ」という彼の願いを伝えているが、これは1984年から数回実現され、心平氏とも心おきなく交歓したことだろう。文学を通した日中両詩人の、深くて厚い友情の歴史がここにはある。これこそ、本物の日中文化交流のケースだろう。

いつの日か、せめて復刻本『瑞枝』とどこかで出会えたらと、私は願っている。

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