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古書往来
35.天野隆一(大虹)と関西の詩人たち

今年も恒例の秋の京都古本祭り(於・知恩院)初日に老体にムチ打って出かけた。十一月初旬というのに、夏のような日射しの中を動き回ったせいか、へたばってしまった。収穫はそれほどなかったが、私にとってはうれしい本を二冊程見つけることができ、はるばる京都までやってきたかいがあった。

「八坂通」表紙
「八坂通」表紙

その一冊とは、天野隆一詩集『八坂通』(平成5)で、新本同様の状態。見返しに、印刷だが天野氏の住所入り謹呈札が貼ってある。もちろん自装で、カバーは五重塔を背景にした八坂通の墨絵スケッチが飾られ、扉にも味のあるランプのスケッチが添えられている。それに、版元も、私がこの連載で書いたことのある京都の文童社だ。
中をのぞくと、詩のみと思いきや、後半の40頁程にわたって、天野氏が戦前、戦後かかわってきた詩同人誌やその詩友たちのプロフィールや交友を記した書誌的エッセイが収録されている。

おまけに各々の文章には、詩友たちの珍しい鮮明な写真や書影も入っている。初出の出典はないが、おそらく「RAVINE」などに書かれたものだろう。私は人に取られては大変、と棚から引ったくるように小脇に抱えた。これは京都の古本展でないと、なかなかお目にかかれない本だろう。あとがきによれば、本書は米寿の記念に出版したもので、今回も大野新氏の助力を得たとある。


私は早速、帰りの京阪電車の中で詩作品から読み始めた。天野氏の詩は、いずれも平明で淡々とした語り口だ。氏は一方で大虹という雅号をもつ日本画家だけに、本詩集でも「水墨画」「ピカソ」「絵の具」「実技」「日本画家のエスキース」などのタイトルの絵画や画家をテーマにした作品が多い。そこには画家らしい目が光っている。一方、氏が歩んできた長い道のりをふり返り、幼年や青春期の思い出を語った「八坂通」「浪速の夢」「元町通五彩」「遊郭」「おこしや前のお祭り」「幼年演芸誌」などは、明治〜昭和前期の関西の懐かしい風俗を伝えるものとしても貴重な内容である。画学生の頃は八坂通の近くに住んでいたという。

氏は奥付他によると、明治38年(1905年)西宮市に生れ、京都の美術工芸学校に入るまでそこで育ったようだ。私がとくに興味深かったのは「元町通五彩」で、「その頃の元町通りは/国際色豊かで/神戸唯一の商店繁華街であった/」という詩句で始まる。七頁にわたる詩なので、全部の引用は控えるが、詩によれば、氏の伯母の家が元町通りの中程にあり、時計と貴金属商を営んでいた。それで、母に連れられてよくその元町の家へ行った。次の節には「ある日/真紅のマントを着て/西洋人の様な顔の日本人が悠然と歩いていた/─ あれは五丁目の今井さんの息子さんです/店番の店員が教えてくれた/(中略)/本人の今井朝路さんは/油絵を描いてぶらぶらしているそうです/本人はオスカーワイルドを気どっているのか/赤いマントが 元町通りによく似合った」とある。
これは、私も連載で書いた足立巻一の『評伝竹中郁』や林喜芳『神戸文芸雑兵物語』中にも登場した奇人画家、今井朝路の強烈な印象を伝えている。

次の節では「少しくたびれた鼠色のトンビを無造作に掛けた/初老の男が ふらふらと」元町通りを歩いているのを見かける。彼が、かの国画創作協会の孤高の画家、村上華岳先生だった。華岳は当時、花隈の住人で、元町、穴門通にあった出版社、ぐろりあ・そさえてにも出入りしたことをこの連載でも紹介した。その往きか帰りだったのかもしれないなどと想像が広がる。
そのあとも、氏が元町で待ち合わせ時間かっきりに現れた竹中郁の頭髪が紫色にピカピカ光っていたことや、外国の婦人と腕を組んで舶来らしい匂いのする服装をして歩いている、ヨーロッパから帰国早々の南画家、水越松南が描かれる。この画家は初めて知る人だ。

最後の節を再び引用しよう。

「ある日/私が滞在している元町の親戚の家へ/詩人の水町百窓君が訪ねてきた/水町君は元居留地にある/イタリア人の貿易商に勤めていた/シュール・レアリズムの詩を作り/同じくシュール派画家古賀春江の装幀で/しゃれた詩集を出版していて/海辺のビルディングをもじって/ペンネームは水町百窓とつけている/彼の周辺には/神戸の海風の匂いがぷんぷん立ちこめ/彼の 詩集のまっ白い アート紙そのまま/白い背広が実によく似あって/元町通りにぴったりだった」

詩集と人物の相似など、詩人であり画家でもある天野氏らしい観察である。

今の元町通りは三宮に比べると少々さびれているが、当時はこんなに先端的で、文学者や画家が沢山往来していたことが伺われる。
水町百窓(本名・藤井秀雄)も私には未知の人だったが、幸い、天野氏は後半の一文、「青樹同人」で、その仕事を簡潔に紹介してくれている。神戸時代、佐藤惣之助主宰の「詩の家」の同人であり、そこから前述の詩に出てきた詩集『生活の一章』(昭7)や『自画像』(昭8)を出した。戦後は大阪の製薬会社に勤め、重要なポストにいた。その後、俳句に転じ、久保田万太郎・安住敦の「春燈」に属す。句集に『●※1旅』(昭45)がある。二句紹介しているが、その一句「一閃の蛇の舌みて渇きたり」を挙げておく。

※1 ●には「覇」の「月」部分が「奇」となる字が入る。

ここで私は、以前古本で入手してあった『兵庫の詩人たち』(君本昌久・安水稔和編、神戸新聞出版センター、1985)にひょっとしたら水町の詩が収録されているかもしれない、と思いつき、床に積んだ古本の山の中から引っぱり出してのぞいてみると、やはりあった!
この本は明治から昭和までの全国的には無名の神戸の詩人の作品も多数収録されている貴重なアンソロジーで、各々略歴も添えられているのが有難い。(ただ、口絵のモノクロ写真の写りが粗いのが多いのが残念だ。)
水町の作品は「遠い僕」「詩の方法」「放光」など七篇が収録されていて、いずれもシュールな短い散文詩で、透明度の高い内容だ。せっかくの機会なので、そのうちの「落下する物質」のみ、引用しておこう。

「装飾物に落ちかゝる夜、あゝ、涯しないこの下降を支へ/て僕が居る。/窓から忍び込む夜、夜の奥の一つの型態、カーテンを撒/き上げると、地球が僕の目の中へ月をはめ込む。僕は僕/の内側に海鳴りを感ずる、肉体の中の月の温度、軽快な/るミューズの羽音がベッドの上の僕を呼び起す。/さへぎられた一枚のガラスの上に砕けるあらゆる物質型/態、僕までとゞく光、肉体の上の銀色のマーク、僕は/光に乗って月の中へ肉体の眠りを墜す。」

略歴には、前述の情報以外に、「生没年月日、出身地不明。昭和6年、神戸で詩誌「詩之家」を大橋真弓らと創刊し、同年、詩集『水晶の家』を刊行」とある。詩集の奥付の住所から、現在の中央区(葺合区)にいたことがうかがえる、ともある。うれしいことに、口絵に『生活の一章』の書影も載っていた。やはり、古賀春江らしい意匠だ。実物もぜひ探求したいものである。
(調べると、さすがに石神井書林や新村堂書店の目録には載っているが、高いなあ、とため息・・・)

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