半世紀もの長い眠りから目覚め、C・Gユングの非公開の書「赤の書」がついに公刊。

赤の書

本書の概要本書の概要
  • タイトル

    ユングの『赤の書』

  • 著者

    C・G・ユング著/ソヌ・シャムダサーニ編

  • 監訳

    河合俊雄

  • 田中康裕・高月玲子・猪股剛

  • 出版社

    創元社

  • 刊行時期

    2010年6月

  • 造本

    上製 

  • 価格

    44,000円(税込)

  • ISBN

    978-4-422-11436-1

ユングの『赤の書』

スイスの精神医学者・心理学者カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875-1961)の思想は、とりわけ20世紀後半以降、精神医学・心理学にとどまらず、神学・宗教学・文化人類学・哲学・文学・芸術に至るまで幅広い領域に影響を与え続けている。
ユングが遺した業績は質量ともに膨大であり、彼自身最晩年に、「私は私から吹き出してきたものとしてだけしか自らの思想を形式化できなかった。それは間欠泉のようなものである。私の後を歩む人はそれに秩序を与えなければならないだろう」と述べたほどである。そのような彼の業績の中心を占めるものと彼自身によって位置づけられ、その思想的な起源を正しく理解するためには必読であると見なされながらも、ユング自身や遺族の意志もあって、長く公刊されることのなかった著作が2009 年10 月、編者・訳者であるソヌ・シャムダサーニ博士らの尽力でようやく、全世界同時発売されることとなった。その日本語版がこの『赤の書』である。

『赤の書』成立の背景
ユングは、第一次世界大戦を目前にした時期、これから始まる世界の争乱を予期したかのように、それとまさに同期する形で精神的な混乱に陥る。彼が三十代後半に陥ったこの心的危機の体験は『、自伝』で章題ともなった「無意識との対決」という呼び名でよく知られている。従来、彼が陥ったこの中年期の心的危機は、それに先立つフロイトとの訣別によって引き起こされたものと排他的に位置づけられてきたが、本書の「序論」では、そのようなフロイトとユングの関係は、ある意図をもって「神話化」されたものであることも明らかにされている。
ユングはこの時期、後に『黒の書』と呼ばれる黒表紙のノートに自分の夢やファンタジーを詳細に書きとめ、さらに、それを自身の手による注釈や描画をつけ加えた上で、赤い革で装丁された立派なノートに装飾的な字体を用いて書き写した(彼のこのような作業は、中断をはさみながらも、後半生を捧げる錬金術研究に本格的に着手する1930年まで続いた)。
本書が『赤の書』と呼ばれる所以はここにある。そして、そのような心的危機を契機とした彼による「私の実験」の内容が記載された『赤の書』は、当時の時代精神を色濃く反映したものであり、先にもふれたように、第一次世界大戦を間近にしたヨーロッパ全体の不穏な雰囲気や、未曾有の大量殺戮が現実のものとなったことに由来する大戦下の終末論的思潮に影響を受けたものであることは否定できない。

文学と心理学、あるいは芸術と心理学の境界
今述べた時代精神の影響は、第一次世界大戦によるものだけにとどまらない。ユングが『赤の書』を通して試みたことは、当時の文学界や芸術界の潮流にもよく符合していた。当時、多くの心理学者がペンネームを用いて空想的な小説や戯曲を書き、小説家たちも創作に当たってはこぞって、自動書記等の心霊現象に関する心理学者の研究を参照した。ユングの『赤の書』は、実際に手にとって読んでいただければわかるように、その内容はもっぱら彼の実体験であるとは言え、そのような「創作」の趣も兼ね備えている。さらに、当時のチューリッヒ・ダダイストたちとの交流もまた、彼の『赤の書』を通した「自己探求」の試みに影響を与え、このような活動を彼と共有していた最も近しい同僚の一人メーダーは実際に画家となった。自分がしていることが「芸術なのか自然なのか」という二者択一にユングが当時悩まされていたのもこの辺りの事情が影を落としていたのだろう。
このように、彼が「私の実験」と呼んだものはその実、極めて「集合的な実験」でもあった。文学と心理学、芸術と心理学の境界は未だ確定されておらず、時代精神は一丸となり新世紀における新しいリアリティのあるべき様を模索していたのだ。そして、そのような状況こそが、『赤の書』のような独創的な書物を産み出す土壌となったと言えるだろう。

ユング派心理療法の奥義すべてがここに集成
本書の「序論」でも明らかにされるように、ユングはいかなる意味でも、フロイトの分派ではなかった。このことは、ユングが臨床実践で用いた治療技法についても言える。本書にその実際が具体的に示されているように、彼は自己分析のなかで、夢やファンタジーを記録し、その登場人物との間でアクティブ・イマジネーションを行い、さらにはそれを絵に描くことで自らの無意識という心的過程に参入することを試みた。後に理論的に語られることのほとんどすべてが、ユング自身によって体験されていたことには驚かされる。また、フロイトが分析家の中立性や匿名性を重視し、寝椅子を使った自由連想法を用いたのとは正反対に、ユングは、分析や治療のなかで自分の被分析者や患者たちに自分が用いた方法を伝授しようとし、その手本を示すため、『赤の書』それ自体を彼らに見せることもあったと伝えられている。つまり、この『赤の書』には、ユング派心理療法の奥義すべてが集成されているのであり、その意味でも、専門家・非専門家を問わず、ユング心理学に興味を抱く者すべてにとって必読の書であると言えるだろう。