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古書往来
57.編集者、松森務氏の軌跡を読む ─ 白鳥書院から平凡社への道 ─

最後は平凡社時代の回想である。
「その頃平凡社は八重洲口の槇町ビルに本社があり、すぐ近くの成瀬ビルに分室があった。」と書き出している。
当時の編集局長は下中邦彦氏で、『世界美術全集』『世界歴史事典』などが相次いで刊行され、好調だった。現在では想像もできない、全集や事典の黄金時代だったといえよう。『児童百科事典』も下中氏の企画で、『社会科事典』の編集委員をしていた日高六郎(社会学者)に相談すると、東京高校で同級だった瀬田貞二を紹介され、編集長に迎えた。この編集部に谷川健一や中山茂もいて、瀬田氏の方針で学者の書いた原稿をすべてリライトして思わず引き込まれる導入部にしたという。
26年12月には麹町四番町にある古い洋館に全社員が移った。『児童百科』の編集や松森氏のいた図版部の仕事は大へんで、一年のうち三分の二は工場に泊まりこんで製版・印刷を監督する日々だった。

ここで又いつもの偶然だが、草稿作成中、自宅でとってない日経新聞がたまたま地下鉄のホームに捨てられていたので一寸見たところ、丁度、谷川健一氏が「私の履歴書」を連載中なのを知った。急いで図書館に出かけ、今までの分をざっと見ただけだが、やはり平凡社時代のことが回想されていた。その12回で、『世界大百科事典』の編集長であった林達夫とのエピソードを語り、『児童百科』へも締切ぎりぎりにやっともらった林氏の原稿の文章のみごとさに敬服したことを書いている。その後谷川氏は宮本常一と出会い、『風土記日本』を企画、社内の批判にもかかわらず、刊行してみると大好評だったという。(これは連載完結後、じっくり再読したいものだ。)

また、回り道をしたが、松森氏は瀬田氏に茂田井氏の話をしたら、瀬田氏もすっかり感心し『児童百科』に「サーカス」の絵や、百科の付録月報『ぺりかん』に絵物語の連載を載せ、いずれも好評であった。『児童百科』の終り頃には博士課程在学中の稲葉三千男もアルバイトで編集局に加わっている。昭和31年7月、実に5年半かかったこの事典が完結した。瀬田氏は退社して児童文学研究に専念する。松森氏はその後、同僚の岩崎毅と『社会科見学・パノラマ図鑑』全六巻を企画、編集し、取材して画家の描く前の詳細な下図を作った。五、六巻の解説はすべて氏が自分で書いたという。
昭和33年、資生堂の美容師である村上利子さんと結婚。以後のことは大ざっぱにふれているが、『絵本百科』『子ども世界百科』を編集し、後者完成の折には下中社長が労をねぎらってメキシコ民芸紀行に行かせてくれた。人情の厚い社長の率いる社風を感じさせるエピソードだ。昭和42年からは三年間、『太陽』編集部にいて、その頃取材で同行した関野準一郎と交友が始まり、関野氏の私刊本『雪国』を古書店で見つけたのがきっかけで、豆本や限定本を収集するようになった。この趣味が本書の造本にも生かされているように思う。

さらに『劉生画集』や『三岸好太郎』画集など、30冊以上の美術書を独りで作り、自分で装幀、造本もやったという。昭和52年に出した石元泰博写真、杉浦康平装幀の『伝真言院両界曼荼羅』は記念碑的な図録となった。
本書はまだ数年は平凡社に在籍する時点で書かれている。氏は大正11年生れだから、本書出版は59歳の折に当る。現在、御健在なら89歳である。お元気で、その後も私刊本を次々出されていることを祈ろう。
また、『平凡社六十年史』が1974年に出ているようだが、私は未見である。が、松森氏の本書や谷川健一氏の文も、平凡社内部の歴史を生き生きと伝えるものとして貴重なものだと思う。

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