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古書往来
54.大正モダンを駆け抜けた画家、吉田卓と森谷均の若き日の交流

昭森社社主としての森谷氏の軌跡や人柄はこの追悼集に時代を区分して詳しく回想されているが、当然ながら出版人以前の時代のことにはあまり触れられていない。それでも、中に断片的に語られている箇所があった。例えば、中央大時代の同級生で、未来派の紹介者として有名な神原泰は以来52年間もつきあった友人だが、「弔辞」の中で次のように語っている。
「…大阪の紡績会社の倉庫の前の運河に薄暮舟を浮べてギターを弾いていた事もあるが、それは寧ろ西欧の遍歴詩人に憧れたものであったのであろう。森谷君は、絵を、彫刻を、詩を、文学を愛したが、更に人間を愛した。芸術を愛する以上に芸術家を愛し、芸術家を庇護し、援助した。ことに大阪に在住して居た間は、東京から来る芸術家の面倒をよくみた。」と。これによっても、森谷と吉田に交流があったことの傍証になる。さらに友人の画家、里見勝蔵も「初めて君と逢ったのは、大阪朝日会館で一九三〇年協会だか独立美術の展覧会のとき、林武が紹介したのだ。」と語り、続けて「…森谷君は、朝日会館より淀川を距てて向ひ側の、赤レンガのビルディングの、古川電気だか、その隣りの会社だったかに勤めてゐた。『どうして会社にそんな閑があるんだらうか…』と思ふ程、毎日三回位、僕等の展覧会場にやって来た。」と証言している。吉田卓は1929年に亡くなっているので、里見が森谷に出会ったのはその翌年か翌々年(1931年に第一回独立展開催)だが、森谷はこのように熱心な美術愛好家であったことが分る。
ちなみに、大阪朝日会館については私も以前、この連載で言及したので、興味深い。この大阪朝日会館も建っていた大正末から昭和初期の堂島川沿いの景観や建物群については、丁度出たばかりの前述の『大大阪イメージ』の中で橋爪節也氏が「二つの”大大阪”洋画家と日本画家」という論考で大正14年、小出楢重が描いた「街景」をテキストに、当時の貴重な数々の写真を同時に掲げながら比較探査していて、そこに森谷氏の勤めていた東洋紡績も一寸出てくる。大正5年竣工の三階建てだったという。大へんユニークな考証なので、ぜひ読まれることをお勧めする。(この本、装幀も斬新ですよ!)
また、美術評論家、瀬木慎一氏も「森谷さんは、若い頃、大阪で道楽したらしく、書画骨董にくわしかった。仲々いい眼をもっていた。」と記し、氏の美術趣味を六つに分けて紹介しているが、そのうちの<1>にキュビズム・未来派以降の前衛芸術、<2>に日本の場合、未来派・構成派・二科・独立以降の現代美術、を挙げている。「とりわけ、二科・独立の連中とのつきあいは深かった。」と言っており、よく二科会に出品していた吉田卓は、まさにその一人だったのだ。

今回も偶然に見つけた一冊の図録から、ささやかな発見(?)があり、画家と後の一出版人の若き日の交流の一端を報告できた。それにしても、森谷氏のような芸術家のよき支援者は今や絶滅に瀕しているのではないだろうか。図録の書簡は、いずれ長谷川郁夫氏あたりが森谷均の評伝を書かれる折には、昭森社以前の氏の交友を証言する貴重な資料の一つになるかもしれない。その頃”獅眠庵”という詩の結社を主宰していたというのも初耳の情報であり、後の詩集出版へとつながる下地になったのだろう。

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