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古書往来
55.後藤書店で最後に手に入れた本と雑誌から
─ 『私のコスモポリタン日記』と『校正往来』 ─

昨年12月14日、朝日の夕刊に載った大きな記事は、神戸、いや関西の古本好きにとってさぞショックだったことだろう。神戸、センター街の入口近くにある老舗、後藤書店が今年1月14日をもって、その98年にも及ぶ店の歴史を閉じる、という内容だったのだから。
むろん私もびっくりし、ここ数ヵ月のぞかなかったお店へ、あわてて閉店まで何度か足を運んだ。さすがに閉店を惜しむお客さんたちでいつも一杯であった。記事によれば、現在の経営者の御兄弟の父親、和平さんが明治43年に中央区で開業し、以来、阪神大水害、神戸空襲、阪神大震災と三度も大きな被害を受けながら乗り越え、店を守り続けてきたが、お二人共、80代になり体力が衰えたので、まだ元気なうちに店を閉じることにしたという。

私が後藤書店を初めて訪れたのはいつだったか、もはや思い出せないが、おそらく高校後半か、おそくとも大学生時代には時々のぞくようになったのではないか。日曜や長い休みの間に三宮へ遊びに行くといっても、独りでさびしく新刊書店や古本屋、映画館へ行く位が楽しみだったのだから。阪神大震災の後も心配したが、仮小屋や裏通り、地下街で店を出され、のぞいたのを憶えている。私の場合、棚の本より床に積まれた本、箱の中の本から時々面白い本を見つけたように思う。私が古本関係の本を出した折に思いきって店主の方にパンフを見せたら、快く置いて下さったし、『古本が古本を呼ぶ』(青弓社)をまとめる際、店の奥に置かれた神戸出身の出版社、ぐろりあ・そさえての初期の豪華本、寿岳文章の『ヰルヤム・ブレイク書誌』の書影撮影をさせてもらったことも印象に残っている。
そういえば、今回、書物・書誌関係の棚の最上部に、ぐろりあ(略)刊の『江戸文学図録』(昭5、京都帝大国文学会編)を見つけ、背伸びして引き出し、しばし眼福に預からせてもらった(あわてて携帯で写真もとったが、ピンボケで天地も欠けてしまい、残念だ。)帙(ちつ)に納め箱、津田青楓装幀、本文は和紙袋綴じのりっぱな造本であった。
最後に訪れた折も、店主の方が一誠堂の古書目録を無料で沢山出しているので、よかったら持っていって、と声をかけて下さった。
私は思いつきだが、聞き書きでもよいので、お店の歴史やお客とのつきあい、エピソードなどを店主に語っていただき、さらに長年通ったお客さんたち(大学の先生や文芸関係者、愛書家など)にも店の思い出を書いてもらい、一冊にまとめられたら、神戸の文化史の貴重な一冊になるのでは、と思うが、今のところ具体化は難しそうだ。ただ、父、和平氏が雑誌『歴史と神戸』の初期の別冊号に書いた随筆がある、と伺ったので、まずはそれを神戸の図書館へ行って探索してみたい。

さて、本稿では後藤書店の閉店セール中に見つけた私の収穫を中心に紹介してみよう。
例によって資金が乏しいので、安い本を慎重に選んで数冊買っただけだが、その中でも気に入った一冊が床の箱の中から取り出した中村智丸『私のコスモポリタン日記』(限定350部、1987年、(株)アオイ発行)という文庫判のしゃれた装幀の私刊本である。アオイの住所は神戸市中央区港島一丁目とあるから、神戸の古本屋ならではの収穫だ。私の全く知らない著者だが、中をのぞくと総アート紙で、著者が撮ったヨーロッパの風景や洋書の写真がふんだんに挿入されている。扉頁にはモンマルトルの路地を写した雰囲気のある生写真が貼ってあるという凝りようである。

「私のコスモポリタン日記」表紙(左)とトビラ写真(右)
「私のコスモポリタン日記」表紙(左)とトビラ写真(右)

さらに目次を見ると、その最後に「なだ・いなださんの名文」や「久坂葉子より我々はながく生きた」というタイトルのエッセイも入っている。これは面白そうだ、と思い、すぐに確保した。これがコーヒー代位で買えたのだから、うれしい。

本書の略歴や本文によれば、著者の中村氏は1922年生れで、戦前は毎日新聞の記者、戦後は自営業に変り、昭和22年、三宮で古本屋、アオイ書房を始め、美術・文学書を専門に扱ったとある。本文からの推測によると、昭和27〜28年頃までやっていたようだ。私も参加して出した『神戸の古本力』(みずのわ出版)の巻末にある林哲夫氏苦心の作成になる神戸の古書店リスト(1926〜2006)では、葵書房(生田区三宮町二ー一)と漢字名で出てくる。その後はレコード店を経て、昭和36年(株)アオイ、昭和45年、みんげいアオイ設立、昭和58年アオイの顧問となる。
氏は美術、音楽、バレー、文学、映画など芸術を幅広く趣味として、とくに写真撮影は50年続いていると言い、その成果は本書にも巧みに盛りこまれている。生来のボヘミアンで、みんげいアオイの頃は毎年ヨーロッパを訪れ、好きな民芸・工芸品を選んで輸入販売したというから、趣味を仕事に生かした羨ましい御仁だ。私刊本づくりも趣味の一つらしく、本書が五冊目に当る。昭和56年には『秀子のピッコロセンド』(高峰秀子さんのことを中心に書いたもの?)─ これもハガキ大、総アート紙という ─ を550部造り、大阪の「リーチ書房」や神田のひやね書房、東京堂でその半分位をさばいてもらった、と書いている。その折、特別革装本も25部程造ったそうだ。

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