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古書往来
46.澁川驍展の図録と文明社の本と

次に、文明社刊の単行本は、新田、澁川本の他にどんな本が出ていたのか、調べようと中之島図書館に出かけた。
相談係の人に尋ね、検索してもらったところ、同館では井上友一郎の『竹夫人』(昭21)のみ在庫しているのが分った。それで国会図書館の在庫も検索してもらうと、文明社刊行文藝叢書として5冊があがり、一巻『煙管』二巻『竹夫人』三巻、津村秀夫『青春の回想』、四巻『龍源寺』、五巻が森本薫『女の一生』で、いずれも昭和21年刊であった。せっかくの機会なので、三階の大阪資料室で禁帯出の『竹夫人』を出してもらい、しばしの対面をしたのだが、これも味のある花森安治装丁の薄い本で、標題作他三篇が収録されていた。表紙だけでもカラーコピーをして帰ろうと思ったが、残念なことに貴重本なので館内ではコピーできないとのことだった。
なお、これは状態も美本だったが、中野書店の売上げ伝票が挿まれていて、図書館も珍しいものは古本屋から購入するのだなあ、と改めて興味深かった。

なお、後で『女の一生』もあきつ書店の目録を見ると、花森安治装とあったので、残りの津村秀夫の本は確認できてないが、おそらくすべて花森の装丁で造本を統一したのだろう。これらの本にはトビラにも花森の木版風のしゃれたスケッチがあるし、奥付の検印用紙も花森作成の面白いものだ。第一、奥付の著作者の横に、「装釘者 花森安治」とわざわざ名が入っている。これは現在の本でも珍しい。むろん内容的にも田宮のすぐれた選択眼によって編まれた、後世に残る叢書の一つだろう。

「煙管」トビラ
「煙管」トビラ
「煙管」奥付「煙管」奥付、検印用紙部分

なお、津村秀夫は詩人、津村信夫の兄で朝日新聞記者として勤めながら数々の映画評論書を出した人。田宮が国際映画協会の仕事をしていた頃、知り合ったのだろうか。この『青春の回想』も思い返してみると、古本で私は昔、手に入れた記憶があり、少しは読んだはずである。弟のことや交友記が書かれていたと思うが、どうも記憶があいまいだ。第五巻『女の一生』の森本薫は、年譜によると、田宮の第三高等学校時代の同級生である。ここで第二外国語にフランス語を選び、桑原武夫の教えを受けたというのも興味深い。田宮が東京大学文学部に入ってからも、森本と小西克巳と三人で、同人誌『部屋』を出している。田宮のことを調べる過程で、私は以前、古本で入手した角川昭和文学全集の付録の小冊子、『アルバム 田宮虎彦』を探し出し、そこに田宮の三高時代の担任教官だった英文学者の山本修二のエッセイを見出した。それによると、田宮と森本、小西はいつも三人そろって山本氏の自宅へやってきては文学の話などをしていたという。「小西克己は若死にしてしまったが、新思潮などによい作品を残した男だ。」とも記している。その一文の最後の方には「戦後『文明』を編集しても自作は一篇も載せず、森本の『女の一生』を単行本として刊行し、彼の臨終の床に送りとどけた義理堅さに、昔ながらの陰徳の片鱗がうかがわれた。」とある。このように文明社の数少ない本の多くは、田宮と著者たちとの友情から造られたようだ。
なお、文明社は戦前にもあって、いろんなジャンルの本を出しているが、戦後の田宮の文明社とは直接関係ないらしい。


これは余談になるが、田宮の年譜を読んだ副産物として思わぬ発見が一つあった。私は『関西古本探検』の中で、戦後やはり短期間活動した文芸出版社、赤坂書店のことを割りに詳しく書き、その刊行の一冊、小山正孝詩集『雪つぶて』の裏広告に載っている青春文学叢書の八冊を一応、刊行書目として挙げておいた。しかし実際に確認できたのはそのうちの二冊だけで、残りの本は刊行されたかどうか不明のままだった。ところが、田宮の年譜にはちゃんと、昭和22年7月に『或る青春』を赤坂書店から刊行、とあった。逆に同じ青春文学叢書の一冊として掲げられていた澁川驍の『港町で』は、前述の図録巻末にある詳しい年譜にも出てこなかったので、未刊行だったことが確認できた。改めて、作家の年譜の重要性を認識した経験だった。

今回は、私の一寸した、話もあちこちにとぶ探索の過程をただありのままに綴ったにすぎない。読者から「こんなん読んで、何か意味があるのん?」と言われたら、「……」沈黙するしかありません。

(追記)
今回の原稿を書き終えた頃、私はふと、前述の小島輝正が文明社のことを何かエッセイに書いていないだろうか、と思いついた。阪急、淡路の「本の森」に、小島の本が何かあったことを思い出して早速出かけてみると、予想通り『ディアボロの歌』(1984年、編集工房ノア)の裸本が見つかった。250円!(ここは総体に安いので助かります。)小島は神戸に長く住んだ著名なフランス文学者だが、私はあまり氏の本を読んではいない。しかし本書は目次を一見しても面白そうである。二、三読んだが、なかなか味がある、ユーモアセンスにも富む好文章だ。この中の「私の出会った人」という総題で、渡辺一夫、太宰治、富士正晴、安東次男ら六人とのつきあいがごく短文で書かれている中に、田宮虎彦も挙げられている。この一文と巻末の自筆年譜によれば、小島は戦争中仕事に行っていたヴェトナムのハノイから21年5月にようやく帰国し、失職していたが、東京府立高校からの友人、旭一美が勤めていた文明社に紹介してもらい、21年夏から「文明」を手伝うことになった。小島、26歳のときである。氏はこう書いている。「仕事のうえで数多くの作家や評論家と直接接することができたのも、もとより得がたい体験だったが、何より役立ったのは、日々接した田宮氏の人柄から無言のうちに教えられた、誠実と責任感とであった。」と。文明社での仕事のことはとくに書かれていないが、「太宰治」の項では、原稿依頼に三鷹の太宰の家に初めて行ったが、「かねて畏怖していたこの流行作家と差し向いになって、駆け出し編集者の私は、原稿依頼どころかろくすっぽ口もきけず、何を話したかも分らぬうちに、無我夢中のまま別れた。」とある。私も昔、駆け出し編集者の頃、初めて河合隼雄先生のお宅に伺い、緊張でコチコチになってわずかしか話せなかったことを憶い出す。

ついでながら、年譜によれば、文明社退社後、小島は生活社に入ったが、経営不振でそこも退社し、数名の社員とともに、自分で「洛陽書院」をはじめた。渡辺一夫訳の『ふらんす百綺譚』など二、三冊を出すも、たちまち経営危機に陥ったという。昭和25年、神戸大の講師に採用され、やっと生活が安定したようだ。

私は今回、小島が20代後半に編集者をしていたことを知り、より身近に感じることができた。本書の他のエッセイもゆっくり読もうと思う。

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