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古書往来
38.モダニズムの画家、六條篤と、詩人、井上多喜三郎

さて、本書は、書誌的調査も行き届いていて、多喜さんの個人発行詩誌『月曜』第一次、第二次の内容も詳しく紹介されている。これも稀少雑誌で、石神井書林目録などでとても高価で出ていた。創刊号は昭和7年6月刊で、「約二十センチ四方の黒い紙表紙で、頁はわずか十二だが、そこには貝殻のような手触りの、白いアート・ペーパーが用いられている。」と記され、次に「装幀は井上、扉絵が天野隆一、カットは六條篤であった。」と出てくる。この号に早くも六條は「月曜」という詩を寄せている。(内容は不明だが、雑誌名になったタイトルだから、看板になるものだろう。)昭和9年2月に9号が出ているが、ほぼ毎号に六條が詩とカットを載せているという。外村氏はここで、「六條は『朝・ボクハ天使タチニ餌ヲ与ヘル/うんこヲスル天使タチ』で始まる『朝』(3号)など、軽妙な詩句から井上との共通点が見出せる。」と書いている。二人には当初から共鳴しあうものがあったようだ。

次に、昭和11年5月、「月曜」発行所から、詩と俳句の雑誌『春聯』が出、6号まで続き、ここにも六條の詩や俳句が載った。
続いて、第二次『月曜』が昭和12年11月から刊行される。これも乳白色のアート紙を用いた瀟洒な装幀で、「当時のレスプリ・ヌーボーの機運に呼応した詩人たちのアンソロジー的性格を持ち、錚々たる詩人、俳人の名前が散見される。」とある。この全号のカット担当が六條篤であった。主な執筆者の一部をあげると、岩佐東一郎、立原道造、田中冬二、北園克衛、竹中郁、堀口大学、滝口修造、春山行夫等々、というから驚く。二年半にわたり、十冊が刊行され、十号には六條の詩「昏れのこる湖」も載っている。
なお、外村氏によれば、『月曜』発行所からは、同誌の執筆者の友人達のために、私費でA6判変型の袖珍本を刊行しており、岩佐の『青春地図』(昭15)、高祖保『禽(とり)のゐる五分間写生』(昭16)、そして六條の句集『淡水魚』(昭15)などが出ているという。これは14〜20頁で、50〜100部限定本というから、今では古本でもめったに出てこない珍本だろう。このように、多喜さんは編集者としての実績も豊富にもっていた人だった。

外村氏は六條を次のように紹介している。 「六條篤(1907〜44)は洋画家、歌人であった・・・(中略)・・・井上が画家を目指していた頃からの知り合いのようで、井上が短歌を作り始めたのも、六條との交友が一因とみられる。六條は『月曜』のカットや表紙絵の多くを担当し、軽妙な俳句や詩も発表しており、井上に次ぐ同誌の顔でもあった。」と。そして、彼の死を井上が知ったのは戦後であった、とつけ加えている。これは、多喜さんも昭和20年4月に召集され、朝鮮北部に配属、敗戦後はウラジオストックなどで旧ソ連の収容所に抑留されて昭和22年に帰国したのだからムリもない。旧くからの文学仲間の死を知って、どんなにショックだったことだろう。
この頁の図版には、『月曜』9号に載った六條の随筆「余白」が掲げられ、「井上をユーモラスに描く」との説明がある。ぜひ、何とかしてこれを読んでみたいものだ。「余白」に書かれているかもしれないが、多喜さんと六條がどのようにして出会ったのかは、今のところ不明である。おそらく、当時の文学青年の常として、文通から始まったとしても、多喜さんは関西一円を商用で風呂敷包を背負って飛び回っていたから、『月曜』の表紙絵やカット、詩稿などをもらいに奈良へも時々立ち寄ったにちがいない。

こうして私は、偶然手に入れた図録をきっかけに、またしても関西の画家と詩人の結びつきを改めて知ることができたのである。

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