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古書往来
51.木下夕爾と『春燈』の人たち

俳句については、清水凡平氏の「笛を吹くひと」というすぐれた小伝によると、戦争中、自由に詩が書けなくなった氏は、昭和19年頃から、中学時代に出会った俳句を再び始めたという。中でも、詩人、岩佐東一郎の句集『昼花火』の影響を強く受けた。岩佐氏といえば、やはり堀口大学を師とし、文芸誌『文芸汎論』を長く主宰し、そこで始めた「文芸汎論詩集賞」の第6回に、夕爾氏の『田舎の食卓』が選ばれて以来、親交のあった人である。その洒脱、軽妙な随筆集は私も愛読するところだ。おそらく受賞以来、お互いの著書を贈呈しあっていたにちがいない。岩佐氏は、地方在住のすぐれた詩人の才能をいち早く見出し、よく交流した人であり、以前、連載で紹介した近江の詩人、井上多喜三郎とも交流があった。そういえば、自然を歌う、モダンで新鮮な詩風には木下、井上両氏にどことなく共通したものも感じられる。

戦後、夕爾氏は久保田万太郎を主宰者とする俳誌『春燈』に投句し、万太郎に絶讃され、名句を続々と発表してゆく。本書から、私も気に入った句を少しだけ抜いておこう。

・書庫にかへす詩書の天金麦の秋
・こほろぎの鳴きつぐごとく綴る詩か
・曼珠抄華わが満身に罪の傷
・家々や菜の花いろの灯をともし
・遠雷やはづしてひかる耳かざり

福田万里子さんによれば、第一句目の詩書は、堀口大学の『月下の一群』を指しているらしい。最後の二句は地元で句碑にもなっている、よく知られた作品。

このへんで、木下夕爾を知らない人のために、本書巻末の年譜や清水凡平氏の小伝に拠って、簡単に氏の生涯を記しておこう。
大正3年、広島県現・福山市に生れる。県立府中中学五年のとき、『若草』の堀口大学選の詩欄に初めて投稿し、特選となる。それ以来、堀口を終生の師とするが、生涯に一度も会うことはなかった。昭和7年、早稲田大学第一高等学院仏文科に入るが、昭和10年、病気で倒れた義父に代り、故郷の薬局経営を継ぐことになり、名古屋薬学専門学校へ転学。卒業と同時に昭和13年より薬局経営。氏にとって、しばらく故郷は挫折を強いる束縛の場となる。地方在住の孤立感や孤独感は初期の様々な詩に象徴的手法で印象深く表現されている。

「田舎の食卓」表紙
「田舎の食卓」表紙

昭和14年、『田舎の食卓』(詩文学研究会刊)を福山市で100部刊行。これが、村野四郎『体操詩集』とともに第6回文芸汎論詩集賞を受賞する。清水氏によれば『田舎の食卓』は自費出版で、「当時の金で60円かかり、一冊60銭で売ったという。自分の気に入ったコットン紙を探して買い、印刷屋にまで運びこむほどの、この処女詩集にかけた夕爾の情熱であった。」という。私はむろん図版でしか見たことがないが、大型本のようだ。

昭和15年、詩集『生れた家』(詩文化研究会刊)出版。昭和18年夏には、井伏鱒二が郷里、広島県加茂村へ疎開し、隣村の夕爾氏と親しく交流し、釣を井伏氏から伝授される。昭和19年、梅田都と結婚。昭和20年敗戦後、疎開中の木山捷平、村上菊一郎、小山祐士、在郷の藤原審爾らと交流。昭和21年、詩集『昔の歌』(ちまた書房)出版。俳誌『春燈』創刊とともに参加し、久保田万太郎や編集人、安住敦に認められる。昭和24年、詩誌『木靴』を創刊し、昭和40年8月46冊まで主宰。同年、詩集『晩夏』(浮城書房)刊。昭和31年、岩佐東一郎刊の風流豆本の一冊として、句集『南風抄』が刊行される。昭和33年、詩集『笛を吹くひと』(的場書房)刊。34年、句集『遠雷』を春燈叢書の一冊として刊行。昭和36年、俳誌『春雷』を創刊主宰。昭和40年、50歳で亡くなる。なお、戦後、福山市や尾道の小、中学校の校歌をかなり作詩している。


私は本書に収められた夕爾氏の小説『日常茶飯事』やエッセイも読んでみた。前者は井伏氏が預って保管していた原稿の一つだそうだが、私小説風の短篇である。詩人である「おれ」が、日頃から自分にちっとも理解がない、しゃれや言葉の綾というものを知らぬ「おまえ」(奥さん)に対して不満やぐちをありのままにやや戯画的に吐露したといった体のもので、すぐれた詩や俳句の出来に比べると、可もなく不可もない出来栄え、と私は思った。井伏氏がこれをあえて世に出さなかったのもうなづける。
それより、とても面白かったのは「わが若き日は恥多し」と題するエッセイである。氏は、旧制中学での台湾出身の教師に対する、同級の一生徒が黒板に描いたいわれなき中傷のいたずら絵のことを枕に回想したあと、次のようなエピソードを告白する。終戦直後、文部省の中等国語の教科書に自作の詩、「早春」が掲載されることになり、その詩のゲラ刷りが送られてきた。そのとき、頭痛で寝ていたのでろくに見もせずに返送したところ、発行された本を見ると、「つながれた子牛の眼に/梅の花がうつっている」という詩句の「梅の花」が「さくらの花」に誤っていたという。その少し後の詩句には「五寸ばかりの麦の上」とあり、そんな季節にさくらの花が咲いている所は日本列島のどこにもない、とお叱りや疑義の手紙が沢山来て、しばらくはノイローゼのようなぐあいだった。後に改版された教科書を見ると、その誤植は直されていたが「名前には、わざわざセキジとルビが振ってあった」とオチがついている。(正しくはユウジと読む)ふんだりけったりの災難である。私はこれを読んですぐ、大先輩の井伏氏にも、恥多き誤植のことを書いた「満身瘡痍」なる自伝的小説があったことを思い出した。(小生編集の『誤植読本』にも収録。)

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