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古書往来
48.織田作・青山光二らの友情と世界文学社・柴野方彦

さて、本書が出版史の証言としても貴重なのは、『海風』の仲間だった柴野方彦が京都で経営していた世界文学社のありし日の社の空間が描かれていることだ。世界文学社については、すでに『sumus』4号、特集「甲鳥書林周辺」の中で、扉野良人氏がその沿革を簡潔にまとめている。それに基づいてごく簡単に紹介させていただくと、昭和21年初め頃創立され、昭和21年4月、翻訳文芸雑誌『世界文学』(A5判)を創刊、2号より京大の仏文学者、伊吹武彦が編集長となり、33号まで担当、38号まで刊行する。毎号、海外の新しい文学動向を紹介した。単行本も62点余り出し、伊吹、桑原武夫、生島遼一、深瀬基寛など京大系の外国文学者によるサルトルやフローベール、スタンダール、ジイドなどの翻訳 ─ 世界文学叢書が中心であった。日本人の著作は少ないが、それでも林哲夫氏の作成した刊行本リストを見ると、織田作『夜光虫』(昭22)、林芙美子『夢一夜』(昭23)獅子文六『達磨町七番地』(昭22)木下順二『山脈』(昭25)森本薫全集(1〜3巻)などが出ている。戯曲が割に多く、白水社から引き継いだ雑誌『劇作』も29冊出している。昭和24年頃から経営が傾きはじめ、その出版活動の終焉は不明だが、昭和28年頃出版物が途絶えている。住所は初め「下京区麩屋町四条下ル」にあり、最後は「左京区下鴨下河原町」(柴野の自宅?)にあった。

さて、本書の「「虚」の華やぎ」の中に描かれる世界文学社の内部を紹介しよう。
「麩屋町の通りに面した世界文学社は、間口は十メートル足らずだが、奥行がむやみに深い。日本家屋だったのを、階下だけ全部板敷きに改造して、表から順に営業部、編集部、応接室、社長室、経理部と部屋がならんでいたが、二階は畳敷きのままで、表に二十畳の広間、廊下を隔てて六畳と四畳半が裏の方へつづいていた。」と。
その二階の広間の大きなテーブルを片隅に寄せて、ある夏の午後、織田作が京都日日新聞連載の「それでも私は行く」の原稿を書いていた。そこへ、織田作の愛人で、電信棒とアダ名される長身のダンス教師の美人女性が乗り込んできて、織田作の代りに一階の社長室で柴野が面会すると、彼女は大きな腹を見せ、妊娠四ヶ月と言って法外な慰謝料を口にし、柴野を閉口させる。と、タイミングよく、織田作のファンで松竹宣伝部のボス、清水金一郎が来客したので、清水に彼女と話をつけてもらうと、実は妊娠は彼女の打った芝居と分かる。その間に織田ははだしで二階の窓から脱出し(脱出がお好きな人です!)屋根づたいに逃げて路地に跳びおりた、という愉快な(?)エピソードを披露している。まるで龍馬の寺田屋からの脱出シーンばりではないか。

次のような描写もある。「世界文学社の応接室には、伊吹武彦、山本修二、生島遼一、大山定一など外国文学系の京大教授連や、朝日新聞論説委員でフランス文学者の吉村正一郎などが、しょっちゅうあつまって雑談の花を咲かせており、高踏的にくつろいだサロンの雰囲気があったが、そこへオダサクが一枚加わると、学者たちの談論風発は、たちまち、ヒロポンを注射されたように調子が狂って、哄笑爆笑が部屋をうずめるのであった。」と。伊吹や山本は織田の三高時代の教師であった。この連載で以前書いた戦後すぐの梅田、堂島にあった尾崎書房もこんな活気あるサロンになっていたようだが、こういう風景は現在の出版社ではごくわずかしか見られないのではないか。

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