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古書往来
42.豊田三郎と紀伊国屋出版部
─ 片山総子(宗瑛)への恋とともに ─

さて、「新しき軌道」の続きに話を戻そう。ここからは出版文化史的にも興味深い話が展開する。

「行動」
「行動」

「紀州堂書房T氏は、新雑誌「アクション」を編輯させる男を物色してゐたとき、ふと、数年前、外国文学を紹介する新聞創刊の相談に来た鳥羽を思ひ出し、彼を田舎から呼び寄せたのである。」このT氏は、いうまでもなく、紀伊国屋書店店主、故・田辺茂一氏であり、「アクション」は紀伊国屋出版部から昭和8年10月号から10年9月号まで刊行された文化総合雑誌『行動』のことである。

これに豊田は編集長として迎えられたのだ。『行動』はプロレタリア文学の壊滅後、知識人が如何に社会状況に関わるべきかにこたえ、「行動主義」を打ち出した雑誌だった。

それ以前に、紀伊国屋は田辺氏が22歳の折、昭和2年、新宿の現在地に開店、昭和5年に店舗を拡大して新築している。当時としては大へん珍しく、二階にギャラリーを設け、そこで「東郷青児・阿部金剛展」や「浅野孟府・岡本唐貴展」「シュールリアリスムの会」「ロシア・ポスター展」など数々の前衛的展示を行っている(前述の図録参照)。

「田辺茂一と新宿文化の担い手たち」表紙(写真:昭和5年当時の紀伊国屋前)
「田辺茂一と新宿文化の担い手たち」表紙
(写真:昭和5年当時の紀伊国屋前)

ただ、執筆者への原稿料ははずんでも、出版部編輯者(その頃は雑誌記者と言った)への給料はかなりけちったようだ。野口冨士男はそのへんの事情を『感触的昭和文壇史』(昭61、文藝春秋)の中で証言している。実は、野口も『行動』創刊号が出た翌日か翌々日に、田辺から突然連絡を受け、「木造モルタルの二階建てであった新宿の紀伊国屋書店へ彼を訪問した」という。編集室は二階奥にあった。野口を田辺に推薦したのは、野口がそれまで学んでいた文化学院で英語を教えていた阿部知二で、野口も同人誌に新劇評を書いていたので、田辺には彼に稿料なしで劇評を書かせられるという打算もあったらしい、と回顧している。野口は当時22歳、昭和8年9月中旬、出版部へ入社した。実際、彼は早速『行動』第2号に匿名で「築地のハムレット」という見開き二頁の新劇評を書き、その後も続けている。野口はかなり働かされたにかかわらず「私の初任給は十三円で、すぐ十七円に昇給したものの、一般の平均的な初任給は専門学校出が四十円、学卒者が六十円の時代であったから、いかに薄給であったかがわかるだろう。」と記している。四歳上の学卒の豊田も二十二円でしかなかった。同じ頃、友人の十返肇も紀伊国屋月報『レツェンゾ』の編集に嘱託で携わっていたが、氏の月給も十円であった。ちなみに、『行動』の原稿料は人気作家クラスで一枚二円、新進クラスで一円だったという。前者で十枚も書けば、自分の給料より多くなるのだから、思うところがあっても当然だろう。


最近読んだ野口の『わが道のべに』(前回参照)にも、『行動』編輯者としての初仕事で、芹沢光治良と林芙美子宅を訪問して小説執筆を承諾してもらい、〆切日に二人から原稿をもらったことや、氏より半年程おくれて、外語学校出身でフランス語に強い、二歳年上の永田逸郎が入社し、三人で雑誌を造ったこと、また「私は時間や行動の上でずいぶんルーズな勤め方をしたが、一度として田辺さんに怒られたことはない。」とも書いている。薄給でも、かなり自由だったのが取り柄だったのだろう。
さらに、野口から見た豊田の印象として「豊田さんはおっとりした人であったからすべてに鷹揚で、こまかいことは何ひとつ言わなかったが、編集実務に関しては仕事があまりできる人ではなかったから、三段通しの新聞広告も私がつくった。」などと正直に述べている。豊田のお気に入りだったらしい。そのためか、豊田によく誘われて二人でSKDの舞台をよく見に行った思い出も書いている。雑誌記者としていろいろ印象深い文学者に会ったが、中でも岡田三郎には格別気に入られ、あちこちでご馳走になった。『行動』廃刊後も世話になり、氏の最初の長篇小説の400枚ほどの原稿を三度も読んでいただいた、などと感謝している。

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