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古書往来
36.神戸の農民詩人、坂本遼 ─ その生涯と作品

本書の年譜に拠って、簡単に坂本の生涯を紹介しよう。
明治37年、兵庫県加東郡上東条村に生れる。父は教職で兵庫各校の校長として辺地教育に力を注ぎ、そのため家庭を顧みるいとまがなく、母が農作業に従事して一家を切り盛りした。詩に見られるおかんとの強い絆はここに帰因する。大正12年(19歳)、関西学院大英文科に入学、同級生に竹中郁がいた。21歳の折、草野心平らの『銅鑼』同人となる。竹中郁らの『羅針』にも参加。大正15年(22歳)、神戸の下宿に草野が来て、夏休み、一緒に郷里に戻り、母校の小学校の謄写板を借り、草野が筆耕、坂本が印刷し、二人で製本して『銅鑼』7号をつくる。まさに手造りの仕事で、ここに出版の原点を見る想いがする。草野も22歳のときで、二人共どんなにか熱中して雑誌造りに励んだことだろう。坂本の下宿は当時、西灘村上野にあった由、私の実家があった灘区に近い。これも坂本が身近に感じられる一因である。

昭和2年、9月に第一詩集『たんぽぽ』を銅鑼社より刊行、続けて『百姓の話』を自分で筆耕、謄写印刷し、製本して出した。これは凝った造本で、本文は和紙袋綴、挿画、装丁は浅野孟府。浅野のスケッチ画が別紙洋紙に朱刷りで入っている。浅野は前衛的芸術団体「アクション」や「マーヴォ」に参加した彫刻家で、当時、灘の家に岡本唐貴と住み、関学文学部の学生とも親しく交流したので、竹中や坂本とも知合い、装丁を依頼されたのだろう。

「たんぽぽ」表紙
「たんぽぽ」表紙

坂本は印刷そのものにも興味があったらしく、昭和5年、勤務していたゼネラルモーターズ社を退社し、郷里で印刷業を営む計画で、大阪の印刷所に技術習得のため三ヵ月通った、とある。翌年、朝日新聞大阪本社に入社、社会部記者となる。その後、応召、従軍体験を経て帰還。昭和23年、同紙学芸部次長となる。同年より児童詩誌『きりん』の編集に協力し、竹中が選詩、坂本は作文の選に当る。この経験をもとに、昭和28年、創元社から(!)『こどもの綴方・詩』を出している。昭和34年、朝日退社まで論説委員。その年、『きょうも生きて』、昭和40年、童話集『虹、まっ白いハト』を出版。昭和45年、65歳で亡くなっている。


「たんぽぽ」口絵(浅野孟府)
「たんぽぽ」口絵(浅野孟府)

本書の巻頭に、おそらく朝日新聞社時代後期のやや朴訥だが貫禄がある、穏やかな笑顔をたたえた氏の口絵写真が載っている。
交友のあった杉山平一氏がエッセイ集『詩への接近』(昭55、幻想社)の中で坂本の追悼文を書いており、その中で、坂本は会うと、竹中郁のハイカラぶりをうらやましく思うとよく話していたが、「私の見る坂本さんは、骨太いけれどもソフトをかむりブレザーコートを着て大変粋でさえあった。私には意外に(下線筆者)スマートに見えた。」とその風貌の印象を述べている。写真からもそれは伺える。

ただ、読者には戦前の詩集『たんぽぽ』のインパクトがあまりに強く、土の匂いのする農民詩人というイメージが生涯大きかったのかもしれない。(実際は長年、論説委員を勤める程のすごいインテリだったのだが。)その作品についても、前述の本で足立氏は「坂本の詩にも小説にもこうした虚構が必ず加えられているのだが、読者はこれを事実として誤解する場合が少なくない。」と注意を促している。

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