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古書往来
25.著者と編集者の出版トラブルの話

最近、私としては珍しく、東京の某古本屋さんの目録で、自筆葉書を一枚手に入れた。値段も三千円で私にも何とか手の届く範囲だったから。

目録には、現在も活躍中の随筆家で、当時は角川書店の編集者(長?)だったM氏(名は伏せておこう)宛ての葉書数枚が小さく図版で載っていた。

その一つが作家、和田芳恵が送ったもので、目をこらして見ると、どうやら文面が出版に関する用件らしかったので、思いきって注文したのだ。

昭和32年6月11日の日付で、一度書いた残りの行間にスペースが足りなくてびっしり書き加えてある。興味深いので、全文写させていただこう。

「『角川文庫』どうなってをりますか。実は他の方から、ひとつ話があり、新聞社の交渉でお宅の文庫の名をだした面子にさへこだわらなければ、私の気持がすみますので、印刷にかかってゐない場合は、原稿至急お返し願ひます。いつも、あなたは仕事の連絡をなさらないのは多忙と存じますが、わるい癖です。五月に出すやうな最初の話からは、かなりちがってをりますので、他の方へ廻したいのです。これは事務的な話で、ちっとも感情的なものはふくまれておりませんことは申上げるまでもありません。一葉関係の私の書いたものを出す一冊を計画して来てゐるのですが、現在、柱になるものがなく、返して戴いた方がこちらでたすかるわけです。」

和田氏は後半では、M氏に遠慮した抑えた書き方をしているが、おそらく腹の底では相当いらだっていたのではなかろうか。新聞社云々というところが今ひとつ分からないが、この出版の顛末は結局どうなったのだろう。

「花の宴」表紙
「花の宴」表紙

にわか調べだが、手元にある講談社文芸文庫の和田の『暗い流れ』巻末にある年譜を見ると、昭和32年9月、予想に反して『樋口一葉』が角川文庫で出ている。

そして、和田の一葉関係の本は近くでは『樋口一葉伝 ―― 一葉の日記』が昭和35年に新潮文庫でも出ている。

もし、角川文庫の方が葉書でいう原稿の出版化なら、M氏はこれを受け取ってあわててすぐに対応し、仕事にとりかかって猛スピードで出版したことになる。

あるいは、原稿はすでに印刷所へ入れていたが、校正ゲラがいつ出るか、和田氏にまだ伝えていなかったのかもしれない。M氏側の資料がないし、まだ文庫の現物も見てないので、確かなことは分らないが。

当時の角川文庫は、今から見ても充実したラインアップで近代文学の名作を数多く出していた。例えば、昭和30年には私の好きな伊藤佐喜雄の『花の宴』(元本は新ぐろりあ叢書)、昭和31年には林芙美子『文学的自叙伝』神西清『恢復期』などが出ている(すべて絶版)。

いずれにしても、こうしたトラブルを招かないためには、編集者はいくら多忙でも一旦出版すると約束して預かった原稿の進行具合いはマメに連絡した方がよいだろう。遅れるなら遅れるで具体的な事情を報告すればよいのだ(オッと。これは殆んど自分に向けて言っているぞ!)。

著者の方では往々にして約束の期限を大幅に越えて(とくに書下しは)原稿を完成するにせよ、一旦編集者に渡してしまうと、できるだけ早く出版してほしい、というのが大方の人情のようだ。中には連絡もせず放っておくと、思いの他短気な著者もいるものだ。(思い当りませんか、編集者諸君!)

和田氏は戦前の十年間程、新潮社の編集部で『日の出』を編集し、その頃の経験を『作家達』(昭和17、泰光堂)という連作集で描いている。

「作家達」函と表紙
「作家達」函と表紙

これは仮名ながら新潮社内部の様子もあからさまに描いており、作家のプライバシーにもふれるためか、没後出た和田芳恵全集にも収録されていない。だから、今は古本でしか読めない貴重な作品集だ。私は図書館で大部コピーしたものしか持っていない。

また、戦後も、大地書房で「日本小説」の編集長として腕を振るったが、版元の倒産後、雑誌を引き継ぎ、日本小説社をおこした。しかし、二年位で倒産、膨大な負債を抱え数年にわたる潜伏生活を送った苦労人である。

それゆえ、編集者の仕事や苦労も充分すぎるほど分っているはずなのだが・・・。

さて、出版のトラブルといえば、私は大分以前に手に入れた加藤武雄の短篇集『襖の文字』(昭和21、文学社)所収の「烏の歌」も思い出した。

「襖の文字」表紙
「襖の文字」表紙

現在は殆んど読まれないが、戦前や戦後しばらくは農民文学、大衆文学作家として大へん人気があったという加藤も、明治44年に新潮社に入社、一時、中村武羅夫主幹の「新潮」を手伝い、後「文章倶楽部」の主任編集者として活躍した人だ。新潮社刊行の本の広告文にも才筆を振るったという。代表作に『郷愁』や『悩ましき春』がある。簡単にあらすじを紹介しておこう。

雑誌記者をしている主人公の彼(おそらく「文章倶楽部」の頃だろう)が、ある梅雨の雨の日、社に出てみると、彼の机に一通の手紙が置かれており、それはBという詩人からのものだった。

中身は、半年程前、彼の編集する雑誌に埋草代りに載せたBの詩に対する原稿料の催促で、「原稿料十五円送れ。君がかれこれ云ふほど僕の詩がいゝものなら、その位送るが当然ぢゃないか」などと無礼な、悪意ある書き方がしてあり、思わず彼はカッとなって、それを紙屑籠に放り込む。

こんな手紙をよこしたBの動機には以下のいきさつがあった。

彼はかねがねBの詩を愛読していたが、今年の春、同じ作家仲間十人程の小宴で、初めて若いBと知り合った。その夜、Bは一寸ばかし酔って自作の詩を一種不思議な調子で朗吟した。

「烏(からす)、烏、大きな烏、/烏、烏、真黒な烏、・・・」と。

彼はその歌いぶりが気に入り、Bがますます愛好すべき詩人となった。

その二ヶ月程後、突然Bがやってきて、一綴りの詩稿を風呂敷から取り出し、実は友人から紹介してもらうつもりだったが、待ちきれず、じっとして居られなくなり、直接持ってきた、なるべく早くそちらの社で出してほしい、と頼んで帰る。

彼は早速社主(佐藤義亮氏だろう)に当ってみるが、あまり気乗りがしない反応だった。そのうち、追っかけるようにBから手紙が来て、自分の詩は多くの大家先輩からも推賞されており、自分でも現詩壇で最も優秀なものと信じているので、君の社で出すのが当然だというような自信に満ちた文面であった。

しかし、芸術的価値と出版的価値とは別であり、社主からすれば、一冊詩集を出しているだけのBはまだ駆け出しにすぎず、詩集の出版はあまり好ましいものではない。彼は困惑しながらも、自分が愛好する詩人の望みに沿うように、折があったら再び社主に説得してみようと思いつつ、二週間がたった。

すると、またBからハガキがきて、「手紙に対して何の御返事もなく、小生を侮辱するも甚だし、すぐに原稿御返しを請ふ」などと書かれていた。

「返事を出さなかったのは彼の手落だったが、その詩集の事は始終気にして、どうかうまく出版になる運びにしたいと密かに心を砕いてゐた折なので、そのハガキはかなり彼には不愉快だった。彼の気も知らないで ―― といふ気がした。」

彼は、詳しく事情を書いた手紙を添えて、原稿を返してやった。「同時にある責任から解放された気安さを感じた」(筆者:ウン、その気持ちワカル、ワカル。)

―― そこへもってきて今回の手紙である。

彼は売り言葉に買い言葉の調子で、「僕は君の詩が好きだった。が此の手紙を見て、君といふ人がたまらなくイヤになりました。僕が出版者だったら出さして貰ふのに ―― と、あの原稿を御返しする時には思ひました。が、今は、僕が出版者でも、君なんかの詩集を出すのはイヤだ」と書く。

しかし怒りがしだいに鎮まってくるにつれて彼はBの気持も考えてみると気の毒で、自分も小説を書き始めた頃、原稿を突返された折の不快さ心外さを省みる。彼は思い直して書いた手紙を破り捨てる。

とたんにまた、Bの無礼な文句が思い出されたが、そのうち、Bのように自由に腹を立て、遠慮なく言いたいことを言えぬ自分自身を自ら罵ってみたりする。こうして彼の心はますます憂うつになってゆくばかりである・・・。

この作品は加藤の体験にかなり基づくものだろう。もし、「烏、烏・・・」の詩が実在するものなら、詩人Bの実名も分るはずであるが、それは読者のご教示を待ちたい。
以上、紹介に終始したが、これは小品ながら詩人Bに対する編集者の相反する心の葛藤が巧みに描かれており、大いに共感させられる。
これに類する経験は、編集者なら誰でも一度や二度はもっていることだろう。(私も数回はある)

それにしても、著者という人種は、ここでも描かれているように、自分の書いたものには大へんプライドをもっている人が多いし、かつ性急な人も中にはいるから、出版に関する返事はなるべく早く出すに越したことはない、と自戒をこめて書いておこう。

編集者の皆さん、如何ですかな?


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