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古書往来
24.画家、青柳喜兵衛と装幀の仕事

青柳喜兵衛といっても、一般の人には殆んど知られていない画家だろう。

どうして私が知っているかというと、もう数年前、梅田近くのビルに梁山泊(古本屋)が入っていた頃、詩集の棚に『牛乳の歌』(昭和14、福岡、とらんしっと社)―青柳喜兵衛遺稿詩画集―を初めて見つけ、一寸のぞいた記憶があるからだ。

口絵が沢山入った四六倍判のりっぱな本だったが、裸本で水ヌレがある割にはしっかりした値段だったので、迷った末に断念していたら、いつのまにかなくなっていた。未だにその時買っておけばよかったと未練が残る本の一冊である。

さらに一年程前、緑地公園の天牛書店で、火野葦平の随筆集『百日紅』(昭和16、新声閣)― 中川一政の鮮やかな木版装 ― を手に入れたが、その中に「喜兵衛追悼」他の彼の思い出を綴った文章がニ、三含まれており、それを読んでいっそう興味を引かれるようになった。

「百日紅」函と表紙
「百日紅」函と表紙

最近も、東北の古本屋目録で注文した内田博(九州の詩人)の詩集『悲しき矜持』(昭和17、臼井書房)が届いたので見てみると、表紙や扉の装画が青柳喜兵衛のスケッチの装画だった。彼の死後の出版だが、九州の詩人仲間ではよく知られていて、著者か友人が彼の作品を選んで使ったのだろう。

「玉葱の画家」表紙
「玉葱の画家」表紙

そんな折、またも「彷書月刊」の本の情報欄で、福岡の弦書房から多田茂治著『玉葱の画家』という喜兵衛の評伝が出たのを知り、私は早速、直接注文して取り寄せた。こんな場合の私の行動は素早い!(あっ、自画自賛だ)

カバー装画と口絵巻頭には、代表作ともいえる大作、夭折した彼の子供を題材にした「天翔ける神々」がカラーで載っており、迫力満点である。何より有難いのは、彼の絵や装幀作品が載ったカラー口絵が8頁付いていることで、私はむろん初めて見る作品ばかりだったが、例によって一ぺんにこの画家が好きになってしまった。東洋的詩情が色濃く漂う独特の画風だ。

それにしても、近頃私の食欲をそそる新刊本には地方出版社の本がなぜか多い。これも、東京の出版社ではとても企画できない類の本だろう。

多田氏は編集者出身のノンフィクション作家で近著に『夢野久作読本』(弦書房)があり、同書房の編集長から、次は久作と深い交流のあった喜兵衛の評伝を、とすすめられ執筆したという。彼は絵の他に、多数の詩や随筆も残しており、さらに交友のあった多くの文学者たちの回想文もあるので、それらを豊富に引用しながら書き上げた力作となっている。私は読了して彼の生涯と人間像に初めて触れえた喜びを味わった。

巻末の親切な年譜によって、簡単に彼の生涯を紹介しておこう。

喜兵衛は明治37年、博多、川端町の青果問屋に生まれる。福岡商業から早大商科に進み、在学中に川端画学校に入学。20歳頃から帝展などに次々と入選する。23歳で結婚して東京に住む。昭和6年、中国へ三ヵ月写生旅行。同年、福岡日日新聞の連載小説、夢野久作「犬神博士」の挿絵を初めて担当し大好評を得、以来、久作と生涯にわたり親交を結ぶことになる。その後も同新聞連載、十一谷義三郎の「神風連」の挿絵などを描く。

29歳の折、岩下俊作や劉寒吉らが創刊した文芸同人誌「とらんしっと」に10号から参加し、以後毎号、詩を発表するとともに表紙絵、カットも担当。昭和12年、以前から交流していた北九州グループの文学者の一人、火野葦平の第一詩集『山上軍艦』を装幀する。

その後、結核の病状が悪化、病床で葦平の『糞尿譚』(芥川賞)の装画を描く。昭和13年、34歳で永眠。

翌年、総勢26名の友人達の跋を付けて遺稿詩画集『牛乳の歌』(原田種夫編集)が刊行された。彼の生家は青果問屋で、そのせいか静物画に重厚な色彩―支那趣味の味もある―でさまざまな野菜をよく描き、とくに玉葱をしばしば描いているので、著者は(玉葱の画家)と名づけたという。

久作の「犬神博士」の挿絵を描いた時は真剣勝負で、濃淡の墨で着想豊かな筆を振るい、久作は彼に完全にノックアウトされたと随筆に書いている。喜兵衛はその後も久作の『探偵小説 氷の涯』(春秋社)や三巻のみで未完に終わった『夢野久作全集』(黒白書房)の装幀を引き受け、久作の肖像画も残している。

親友、火野葦平の本の装幀をめぐる話はとりわけ興味深い。葦平から『山上軍艦』の装幀を頼まれるが、日中戦争が始まり葦平がいつ召集されるかわからぬ状況になり、彼の形見の本となるかもしれぬので、猛暑の中、全力を注いだ。

本書によると「表紙には三本マストの古風なオランダ帆船を選び、マストには色とりどりの旗をはためかせ、船尾には、葦平のトレードマーク、河童の旗印を掲げてやった。題字も喜兵衛が書いた」とある。

前述の『百人紅』には、葦平が喜兵衛から装幀の仕事の途中で受け取った手紙が紹介されている。本書には引用されていないものなので、一部を再引用しておこう。

「軍艦の戦備整ひし由。早う進水させぢゃなるまい。今に軍艦旗とくす玉をお送りする。カット十一枚及び跋は七月二十八日、扉及び中絵一枚は八月四日、既にお種(筆者注・原田種夫)宛発送してある。―(中略)―少々費用がかさむかも知れないが口絵のことを考へてゐる。函のことも考へてゐる。本のツカを五分として函は幾分になるだらうか。知らせて下さい。(後略)」などと。

書き出しなど、さすがに詩も書く人らしいしゃれた文章ではないか。最後の方では、私も昔、装幀を依頼したデザイナーに、製作の人に聞いて本の束(つか)の幅をよく伝えたことを憶い出す。

『山上軍艦』は、小倉連隊に入営した葦平が戦地に向かう直前、原田種夫が印刷所を叱咤激励して、ようやく四冊だけ仕上げてもらい、昭和12年9月22日の出版記念会にぎりぎりで間に合ったという。葦平は感激してポロポロ涙を落とし、その一冊を背のうに入れて戦地に赴いた。

葦平は後に前述の本で、「詩集『山上軍艦』はただ喜兵衛の美しい装画のみによって充分に後世に残す価値があるだらう」とまで言っている。私は本書の口絵図版で初めて見たが、なるほど素晴らしい出来のものだ。

『山上軍艦』装画(昭和12年刊、野田宇太郎文学資料館発行の絵葉書より)
『山上軍艦』装画
(昭和12年刊、野田宇太郎文学資料館発行の絵葉書より)

本書によれば、表紙は木版で、刷りは先輩画友、鈴木金平の助力を得て和紙に十二度も刷るスランミル版画だという。四六倍判176頁、限定200部の豪華本。いつか実物も見てみたいものだ。

彼は、葦平の追悼文(『百日紅』所収)によれば、作品の切抜帳だけでも分厚いスクラップブック五冊を残しており、「それには新聞雑誌の表紙、カットの類を初め、マッチ、包装紙、鶏卵饅頭、その他の菓子類、保険の趣意書等の意匠を含めて、ほとんど数千点のものが、丹念に切りぬかれて貼ってあった。」という。多田氏も書いているが、これらのカットだけでも集めて、ぜひ一冊の画集にしてほしいものだ。

彼は又、郷土玩具を蒐集し、とりわけ凧(タコ)を愛し、いつまでも童心を失わなかった。友人の言によると、部屋には玩具や泥人形、壷、オランダ皿、本などが所狭しと置かれているので、まるで夜店の骨董屋のようだったという。(この点は岡田三郎助のアトリエとも似ている。)

鈴木金平は、彼の人間像について、理論家で負けず嫌いの反面、「非常な感情家で、ロマンで、泣虫で、用心深い神経質」な人だったと書いている。好き嫌いは激しいが、友情に厚く、気に入れば採算を度外視して頼まれた仕事をし、多くの画家や詩人、小説家に愛された。それは、彼の福岡での葬儀の後、須磨子夫人と娘さんが東京へ帰る日、原田種夫や劉寒吉ら四人が列車に同乗し、下関まで(!)見送ったというエピソードだけでもよく分る。

喜兵衛の遺作展は昭和14年、福岡で開かれているものの、戦後は昭和51年に北九州市立美術館で「青柳喜兵衛・長末友喜展」が一度開かれた切りである。この本の出版を絶好の機会に、地元で大々的な展覧会を企画してほしいと願う。そうなれば、遠くて見にいけないのは残念だが、私は早速図録を注文するつもりだ。


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