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古書往来
16.京都、文童社のこと

久しぶりに阪急淡路の「本の森」をのぞきに行った。ここはいつも本が棚という棚にジャングルのようにあふれている所だが、著者別に並べるなど整理はなかなか行き届いている。

詩歌集コーナーに最近、誰か詩人が手離したのか、詩集がまとめて並んでいる。その中に古家晶『魚文』(昭和64年、文童社)を300円で見つけたので喜んで入手した。

古家さん(女性)がどんな方なのか、略歴もないので全く知らないのだが、跋文に大野新氏が「京の人」を書いていて、彼女が詩誌「骨」(昭和28〜51年、50号)の仲間の一人とあったし、文童社刊というのにも魅かれたからである。

「骨」は京都の詩人、天野忠や山前実治、脚本家で詩人の依田義賢、滋賀の井上多喜三郎らを中心に創めた同人誌で、後には深瀬基寛らの英文学者や画家、陶芸家、染色家など多彩な芸術家も参加したレベルの高いもの。『魚文』も芸術家らしい独自の感性が光る、味わい深い第一詩集である。

「魚文」表紙
「魚文」表紙
「立春小吉」表紙
「立春小吉」表紙

残念ながら私がこれまで古本で見つけた文童社の本は本家勇『望郷歌』(昭和40年)、藤野一雄『立春小吉』(昭和63年)しかまだない。この京都の小出版社を意識して注目するようになったのはここ半年前位からで、河野仁昭『戦後京都の詩人たち』(平成12年、「すてっぷ」発行所)に紹介されていた井上多喜三郎のエスプリに富む詩を読んで、私はたちまち多喜さんファンになった。

その多喜さんは戦後、「骨」同人として活躍したが、「骨」発行の編集実務を一貫して支えたのが、京都市内で印刷業双林プリントを経営しながら「文童社」の名を掲げて多くの詩集を出版し続けた山前実治(やまさきさねはる)氏であった。

山前氏は飛騨出身で、戦前「リアル」を天野忠らと発行し、検挙されたこともある詩人で、戦後「詩人通信」を15号まで発行、自身の詩集『飛騨』『花』『岩』を出している。昭和53年七十歳で亡くなった。河野氏の『詩のある日々―京都』(昭和63、京都新聞社)にも山前氏の憶い出が書かれているが、天野忠とは少年のように何でも言いあえる間柄だったという。おそらく天野忠批判もズケズケ言える唯一の人だったろう。

天野忠も『我が感傷的アンソロジー』(昭和63年、書肆山田)―これは昔、早稲田通りの古本屋で見つけた大切な一冊―という交流のあった主にマイナーな関西の詩人達の人物像とその詩を鮮やかに紹介した絶妙のエッセイ集の中で、山前についても一文を草し、氏が詩の朗読を得意とし、戦後、映画館の上映の幕間にスクリーンに文字を映し誰彼の作品を朗読していたことを紹介している。天野は自分が、山前は一ヶ所必ず間違って読む癖がある等とよくひやかしたものだから、その後嫌気がさして朗読を止めてしまったのか、としきりに後悔している。

氏は実に多くの京都滋賀の詩人の自費出版を親身になって世話したが、反面、詩人の仕事に厳しい所もあったようだ。前述の河野氏の本の「山前実治さんの思い出」で、河野氏は双林プリントでの山前氏の応待の様子を描いている。その頃、御幸通り二条下ルにあった社に河野氏は同人誌の相談で土曜の午後などに時々お邪魔していた。

『「いらっしゃい」と山前さんはいい、大野新は「やぁ」といったきり輪転機にむかいあった』大野新はH氏賞受賞の詩人で批評家としても活躍中の人。双林プリントに30年勤め、文童社の数々の優れた詩集を世に送り出した。文童社刊の詩集には多く大野氏の、著者の個性と作品世界を浮彫りにした跋文が付いている。河野氏は山前氏がすすめる椅子にかけて、話の聞き役を務めるのが常だった。

「話はたいてい『骨』同人のだれかれの棚おろしになった。・・・略)・・・ご自身の話が一段落するごとに、あたりかまわずけたたましく笑った。それが話の切れ目であった」そして最後に「無邪気でいい人だった」と結んでいる。

私はこの機会に河野氏の本から文童社の本をざっと抽き出してみた。

まず、コルボウ詩話会同人の詩集コルボウ叢書の発行所となり、天野忠『小牧歌』(昭和25年)城小碓『ベーリングの歯人』天野隆一『雲の耳』など十一冊を刊行。

最盛期の主な詩集を列挙すると、天野忠『クラスト氏のいんきな唄』(昭和36年)荒木文雄『短調』(昭和37年)杉本良夫『呪文』(昭和38年)安藤真澄『豚』(昭和38年)清水哲男『喝采』(昭和38年)河野仁昭『回帰』(昭和39年)大野新『藁のひかり』(昭和40年)、天野忠『動物園の珍しい動物』(昭和41年)他に河野仁昭『抒情の系譜』(昭和41年)や天野隆一『京都詩壇百年』(昭和63年)もある。これらはごく一部にすぎない。

実治氏亡き後も御子息や大野氏が引き継いだらしく、私の入手した詩集の二冊は昭和63、64年刊である。今回、中之島図書館にも問い合わせてみたが、文童社の本は自費出版のためか、たった五冊しか入っておらず、それも殆どが著者寄贈本だった。(京都の図書館では事情が違うかもしれない)

その中の白川淑『祇園ばやし』(昭和61年)は、著者の血の中を流れる(内なる京都)をはんなりした京ことばを巧みに盛りこんで唄ったもので、艶っぽい詩が多く、私はとても気に入った。(倉本修装丁)

「祇園ばやし」表紙
「祇園ばやし」表紙

また福田泰彦『亡妻記』(平成6年)は詩とエッセイ集だが、福田氏は日本でも珍しい笛師で詩誌「RAVINE」同人。取材に来た新田次郎氏との交流を描いたものなど、感銘深いエッセイが多い。この人のエッセイ集をもっと読みたいものだ。

奥付には印刷兼出版者として山前五百文とあった。おそらくこの本あたりが文童社の最後の方の本ではないか? 私は文童社の電話番号など調べてみたが、現在は閉社されたようである。今はせめて古本屋で一冊一冊文童社の本との出会いを待つしかない。

※ 今夏の京都の古本祭りで、薄いシンプルな造本の詩集、薬師川虹一『いかるす』を見つけた。奥付を見ると、昭和53年RAVINE社刊、印刷所が双林プリントとなっていた。薬師川氏は現在も「RAVINE」の中心的編集人である。私はうれしくなった。

又その後「本の森」では、文童社刊の竹内正企『たねぼとけ』(昭和63年)由利俊『偏執へ』(昭和61年)を見つけた。

竹内は『地平』で農民文学賞を受けた近江詩人会会員。二冊とも私が知っている倉本修氏の渋く、品のいい装丁。奥付によれば、二人共数冊の詩集を文童社から出している。

私の蒐集もまだまだこれからだ。

「たねぼとけ」表紙
「たねぼとけ」表紙
「偏執へ」表紙
「偏執へ」表紙

<追記> 前回もそうだが、私の書くものにはどうしてこうも偶然(=シンクロニシティ)が続くのだろうか?

この原稿を書き終えて二週間もたたないのに、たまたま発売された『彷書月刊』9月号を見ると、巻頭に詩人、正津勉氏へのインタビュー「双林プリントと詩人たち」が載っていた!

初めに引用された角田清文氏の「拠点としての双林プリント」によると、双林プリント(文童社)は今もあるという。もしそうだとすると、私の誤解になるが、再度電話案内で確認しても今はないとのことだった。

正津氏も同志社大の学生の頃、友人となった清水昶(あきら)と詩同人誌を出そうと、昭和39年頃、双林プリントに初めて大野新を訪ねたという。以来、「0005」を初め、いくつかの同人誌を破格の値段で造ってもらい、お世話になった山前、大野両氏を非常な恩人だと語っている。京都の若い詩人たちにとって双林プリントを経てないものはモグリだとまで言われていたそうだ。

山前氏は気さくでたいへんおしゃべり好き、小柄でひょうきんで面白い人だったとも回想している。詳細は同誌を参照して下さい。

なお、編集後記によると、歌手、倉木麻衣は山前氏の孫に当るという。これにもびっくり。


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