20.「言わずもがな」

幸せなときには私はいらない
春の日差しが心地よいときに私はいらない
友人からの便りが届いたときに私はいらない
恋人との待ち合わせに心躍るときに私はいらない
長編小説に没頭しているときに私はいらない
誰かに愛されているときに私はいらない
誰かを愛しているときに私はいらない
なんということはない
不幸せでもなんでもないのに
なんだか人恋しいときにだけ
たぶん私はいるのだと思う


3ヵ月、1年、10年、20年ぶりに便りが届くことがある。ことさらに何があるというわけではなく、時候の挨拶だという。新聞の片隅、雑誌の広告欄、タウン誌やパンフレット、検索をかけてヒットしたホームページ、片付けていた古い手紙の束の中……に私の名前を見つけたという。ふうん、そうなんだ、と思う。ちょっと嬉しかったりする。

でも、待てよ、とも思う。何もなしにカウンセラーを呼び出す者はいない。きっと何かはあるのだけれど、ことさらに言うほどのことでもない……そう思うからあえて言わないのではないか。本当は苦しくて、耐えて耐えて耐え切れずに、便りをしたためたのだけれど、でもあまりに苦しくて何から書き出していいのか分からない……だから何も言わない、何も書かないのではないか。そうであるならばこそ、そんな自分自身へのプライドを、最大限に大切にしたいから、私は何も聞かない、こと挙げしない。

いやいや穿(うが)ちすぎだよ、本当に単なる時候の挨拶なのだから……それはそうかも知れない。多忙な日々の合間にふとできた間隙、忘れていた見ないで済ませていた虚ろな自分に思わず気づいてしまったとき、私もまた久方ぶりの時候の挨拶を、誰かに送ってみたくなるものだから……。

でも、だからこそ、そんな便りには言わずもがなが、お作法しきたり。遠く離れて風化した、相手の中にある私は、純化され結晶になって、もはや実物の私とは似ても似つかぬ輝石になっていることが多いから、あるいはまた、イメージの中で写真のように動かぬ肖像となって、微笑を浮かべていたりもするから、日々の私は言わずもがな。近況さえも、言わずもがな。言わずもがなも、言わずもがな……とりあえず生きていて、とりあえずそこにいて、とりあえずつながっている、そんな徴(しるし)さえあればよい。たぶん、きっと、そうだから、こんな風にエッセイに私信を託してみたりする。