18.「なくなるもの」

我が家の娘が9歳のときにこんな夢を報告したことがある。

「あのね、U(妹)が巨大化して追いかけてきたの。
それで<Uの手よ、あっち行け!>って叫んだら、
手がなくなったUが追いかけてきたの。
それで、目とか口とか足とか一つずつ叫んだらなくなっていって、
全部なくなっていって、
しまいにUのたましいが追いかけてきたの。
それで<Uのたましいあっち行け!>と叫んだら、
Uっていう名前だけが追いかけてきたの。
で、<Uあっちいけ!>って言ったら、
最後に何もなくなったの……」


子どもの想像力は素晴らしい。いや、人間の想像力は素晴らしいと言うべきか。

手がなくなって、口がなくなって、足がなくなって……そうしてどうなるのだろうと思ったら、たましいが追いかけてくる。普通はそれで終わりだろうと思うのだけれど、さらに名前だけが追いかけてくるのだという。ここまで聞いて、僕は背筋が寒くなった。名前が追いかけてくるのだったら、この後果てしなくいろいろなものが追いかけてくるのではないか……そうしたら、ストンと落ちた。「最後に何もなくなったの……」ホッ……。

それにしても名前に追いかけられる恐怖とは、いったいどんなものだろう。やまだようこによれば、たましいは何となく形があるみたいだけど(※注1)、名前には形が……あるのだろうか?「死体」よりは「死」、「墓場」よりは「闇」……怖いものは数々あれど、異形のものは所詮有形。むしろ形なく、捉えどころもない、そのくせ存在感や雰囲気だけは圧倒的に備えているものこそ、最大限に恐怖を掻き立てるのかもしれない。

思えば我々が相手にしているものは、本当に影も形もないものである。ひょっとしたら、それは実は名前だけなのかも知れない。影も形もない言葉だけ……「あい」「つみ」「うらみ」「はじ」「けがれ」……それだけに恐ろしい。それだけに愛おしい。

名前だけが残るということ、存在証明は名前だけだということ。そうして人は、現世における名前を失って鬼籍の人になるのだということ……河合隼雄先生を筆頭に、こころの業界でも多くの方々が昨年、名前を失われた。その人の死と共に失われるもの、なくなるものを、かつて河合先生は「たましい」と名づけた(※注2)。確かにいまだ、僕の中で河合隼雄の名前は失われていないけれど、確実になくなったものはある。一年を振り返って、この喪失感を埋めるものを、僕はまだ探し続けている。

注1
山田洋子.(1998).たましいの形−この世とあの世の移行表象.濱口惠俊(編),日本社会とは何か−<複雑系>の視点から NHKブックス(pp. 206-221).日本放送出版協会.
注2
第2回心理臨床学会(於:名古屋)での講演から。