
精神分析とスピリチュアリティ
ネヴィル・シミントン著/成田善弘監訳/北村婦美、北村隆人訳
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精神療法 2009年6月号
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高橋哲郎氏(精神分析セミナリー)評
本書はこれまで精神分析と宗教が互に何となく回避,あるいは敵対視してきた関係を根本から見直して,一つの統一的な理解をうち立てようとする意欲的な著作である。
自然科学であろうとして始められた精神分析が,宗教は人の心を反科学的に理解,支配しようとしていると厳しく批判していることは,フロイトの『ある幻想の未来』(Die Zukunft einer Illusion, 1927)によって有名であるが,この批判の対象になったのは実は原始宗教のあり方であった。フロイトとプィスターの友好的論争に明らかなように,フロイトは成熟宗教の価値を認めていた。原始宗教では,個人と,それと一体視された部族の本能的充足と生き残りを,全能的魔術的神に願い,その怒りを宥めようとする態度が特徴であり,それに対して成熟宗教では,本能充足や生き残りを超脱した価値こそが,人間特有のあり方を示すとする。それを私の理解と言葉で言えば,真理と慈みと謙遜である。この価値の選択は,「人間が死者を埋葬し始めた時に生れた」志向性によって自由に選択される。ここに,生き方についての個人の責任が生れたのである。精神分析は,内的に最も親しい人間関係プロセスの中で,真の自己と生き方を発見して生きることに価値を置く。これには,ナルシシズムの徹底した分析を通して真の自己知に到達することが不可欠であると著者は説く。これはまさに,原始宗教が成熟宗教へと変容するプロセスと軌を一にしている。この意味で,精神分析は志向性と理性を基に生き方を発見する自然宗教といえるのである。
精神分析家はこれまで,精神分析の宗数的側面に直面することを避けてきた。一方宗教は,情緒の働きを理解することに価値を置いてこなかった。両者の統合は,人間の生き方に大きく貢献するであろう。両者の共通の目標は,偽を真へ,憎悪を慈みへ,傲慢を謙遜へ,破壊性を建設性へと変容することである。それぞれは,最も親しい人間関係の中で最も際立って起る。その典型的例として,夫婦関係の転移の効果的分析が描写されているのが印象に残った。同じ意味で,転移関係の分析が,分析のプロセスの中から生れたその典型的例であることは言うまでもない。
著者が,徹底した自己知へのプロセスの中で防衛として働く罪悪感に触れていること(p.l93)を私は評価する。しかし,罪悪感は人間の不完全さへの自己知,さらにその自己に責任をもつという志向性から生じることは事実である。この場合,許されること,許すことは,宗数的にも精神衛生的にも極めて重要な徳性であると考えられる。最近ようやく少数の分析家が研究し始めた許しの問題を,著者は論じていないのが残念であるが,近い将来,私の期待が応えられることを望む。
読み進むうちに,さまざまな思索が刺戟される読み応えのある力作である。この書評は私の読み方から生れたものであるが,読み方によってそれぞれの理解が発展するであろう。精神分析あるいは精神分析的精神療法に真剣に取り組んでいる人々に強く薦めたい。
原書 Neville Symington:Emotion and Spirit;Questioning the claims of psychoanalysis and Religion
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