
分析の経験
N・シミントン 著/成田善弘 監訳/北村婦美、北村隆人 訳
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こころの科学 133号
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すばらしい本である。まず三種の読者層を想定することで、すばらしさを示そう。それぞれの読者が、新鮮な視界を拓かれる本である。第一のグループ、精神分
析に関心があるがどこから接近したらいいか迷っている人、あるいは、精神分析を胡散臭いと感じている人は、この一冊を読むだけで、精神分析という文化の全
体像の良質の素描を手に入れ、この文化が登場し存続し続けている必然性と、これが魔術的な技術ではないことを理解できるだろうし、魔術的なものだとみなさ
れがちなのはなぜであるかも理解できるだろう。第二のグループ、精神分析関連の知識が豊富であり、かえって情報の森の中で道に迷った気分に陥っている人
は、精神分析の諸流派間の互いの関連を理解し、さらには他の文化との関連をも理解することで、これがマニアックなそれゆえに魅力的な特殊世界ではなく、常
識との連続性の確かな文化であることが納得できるだろう。第三のグループ、精神分析の視点を足場にして治療活動を行っている臨床家、もともと原著者が読者
と想定している相手であり、評者もその一人であるこのグループの人は、ページをめくるたびに、目からうろこの衝撃を受けるだろう。あるいは、現在陥ってい
る治療の行き詰まりを打開する示唆を得るだろう。それはスーパービジョンの体験である。
内容紹介の手始めに、目次を示すことですばらしさの一端を伝えよう。まず「背景の説明」として、「精神分析 ─
真実の僕」「精神分析における洞察と感情」「意味の科学としての精神分析」の三つの章が当てられている。ついで、「フロイトの発見」として、一一の章が当
てられ、神経学者であったフロイトが催眠を経て精神分析を創設する経緯が語られる。第二・第三のグループの読者には周知の歴史であるが、それだけに、著者
の独自の視点が描き出す歴史像と精神分析像から目の開かれる思いと知的な充足が得られ、情動の沸き立ちさえおこる。つぎは「フロイトの同時代人たち」に六
の章が当てられ、カール・アブラハム、アーネスト・ジョーンズ、フェレンツィ、そしてユング、がフロイトとの理論面と人間関係の面とが絡み合う形で論述さ
れる。学問もまた人の営みだなぁと切ない気分になる。最後は「より深い理解へ」に一〇の章が当てられ、精神分析治療が守備範囲を拡大してきた経過と、それ
を推し進めた人々による理論面での深化が語られる。登場するのは、フェアバーン、メラニー・クライン、ビオン、マイケル・バリント、ウィニコットである。
本書のすばらしさの源泉は著者の視点にある。著者は「精神分析の教科書のこうした奇妙な言葉遣いを理解したがっている」「私の中の六歳の小さな子ども」や
「日常語に飢えている」人々に語りかける。そのためには、「私個人に響いてくる理論や技法の側面だけを扱」う。これは英国知識人の標準的な姿勢である。著
者が依拠するのは、文学や哲学からの人間知と、自身の臨床体験である。後者からの文言には、しばしば凄みがある。「私の性格のいくつかの欠陥を癒すことを
患者に許すと、その経験は患者の自我を飛躍的に成長させると私は確信するようになりました」は一例である。
私事であるが、一九七〇年、評者はタビストック・クリニックで、パデル先生の連続講義を聴いた。一九七七年、パデル先生の引退に際し、先生の推挙により著
者が連続講義を引き受け、八年間続けた講義の最終講義録を印刷したものが本書であるという。パデル先生も本を出そうと考えたことがあり、僕の録音テープを
お貸しした。しばらくして先生は「自分の声を聞くのは気分がよくないねえ」とテープを返され、本はできなかった。また、訳者である北村御夫妻は翻訳がきっ
かけで、現在、赤ちゃん同伴で著者のもとで修練をされているらしい。評者は赤ん坊の病気のせいで、単身での留学であった。羨ましい。まあ若干の差異はある
ものの、お互い良師に出会えて幸せですね。
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