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古書往来
30.足立巻一と戦前の神戸の古本屋

最近、梅田の東商店街近くの古本屋で、数冊積まれたビニール包みの古い雑誌の中から、初めて目にする『六甲』(昭和17年10月号、百十八号)を見つけた。300円也!

「六甲」

表紙画も棟方志功だし、中身は分らないが、値段の紙札に足立巻一他、とあったので、これは神戸で出されていた何かの文芸同人誌に違いない!とにらんで、喜んでレジにさし出した。

帰って中を見ると、やはり神戸刊の月刊の短歌同人誌で、発行所は須磨にあり、編輯所は神戸区下山手通八丁目二八四となっている。本文24頁の薄いものながら、中に足立氏が「花さかてしけるなけきの―人間春庭素描」を三頁にわたって載せている。これは後に、昭和49年出された本居春庭の大部の評伝『やちまた』に結実する先駆けをなすエッセイだろう。

また、氏は「銑眼頌歌」と題する詩一篇も戦地から寄せている。他に、神戸の図書館人、歴史家で戦後は『歴史と神戸』を長く主宰されていた落合重信氏の「泉讓(せんゆづり)かこと ―― 神戸和歌史増補資料一」もある。挿画(カット)も田村孝之介、川西英と、一流画家のもの。

本号は十巻十号なので、すでに10年も続いている同人誌だが、さて、どんな歴史をもつ雑誌なのか?私は短歌史には全く弱いし、一冊だけでは見当がつかない。

その時、ふと頭をよぎったのが、足立氏の自伝的著作を読めば、ひょっとして出てくるかもしれない、という思いつきだった。

故・足立巻一氏は周知のように神戸在住で活躍した作家、詩人で、『やちまた』で芸術選奨文部大臣賞も受けた人だが、私はなぜか氏の本を今までそれほど読んでいなかった。しかし、顧みると、私が大阪出身の出版社、金尾文淵堂に興味をもち調べ始めたのも、元々は氏が『文学』に載せた先駆的論文「文淵堂・金尾種次郎覚え書」を読んだのが一つのきっかけになっている。さらに昨年、『評伝竹中郁』を読んで、大へん教えられ、改めてすごい書き手だったと感心した。

「親友記」表紙
「親友記」表紙

氏は壮年になって次々と自伝的な長篇エッセイを出したが、その中の一冊、『親友記』(1984年、新潮社)は以前、古本で入手し、いつか読もうと積んでおいたものだった。私はこれに目星をつけて、この機会に一気に読了した。

結果はやはり的中し、『六甲』の由来が分ったばかりか、いろいろな発見もあった。(あやうく宝の持ちぐされになるところだった!)

本書は、足立氏が生後三ヵ月で父が急死し、母も再婚して去るという家庭の不幸で東京、長崎と放浪の生活を経て、やっと母も氏のもとへ帰り、神戸の伯父の家で養われることになった大正11年、9歳の頃から、昭和57年、70歳に至るまでの、「文学的」交友を綴った生彩に富む自伝であり、氏が様々な友人達と熱中してかかわった文芸同人誌の変遷史でもある。

後者は神戸文芸史の貴重で生々しい一つのドキュメントになっている。(その点では、単なる親友達の物語ではなく、タイトルやオビの情緒的な文句は一面的で、少々物足りない。)さらに、私にとって面白いのは、これは戦前の神戸の古本屋の一側面史ともなっていることだ。

さて、味もそっけもない紹介になってしまうが、小学校二年の頃知り合った近所の友達、川崎藤吉や一鶴(俳号)とともに、氏はしだいに演劇や詩歌・文学にめざめ、関西学院中学部四年生のとき、新聞や雑誌への投稿で出会った灘にいる萩沢紫影を中心に二十人と、短歌同人誌『あさなぎ』を昭和6年6月に創刊する。

短歌からしだいに離れた氏は次に、『あさなぎ』で知り合った亜騎保、岬絃三、九鬼次郎、冬木渉、一鶴と六人で詩だけの同人誌『青騎兵』を昭和7年6月創刊、7号まで出す。昭和7年といえば、氏がまだ17歳の折だから、その頃の文学青年はおしなべて大へんな早熟ぶりである。

その後、『あさなぎ』の方は神戸の四つの短歌同人誌と合併し、昭和8年1月に『六甲』(!)となって創刊されたのである。創刊号表紙には小磯良平のバラの素描が刷られ、富田砕花の近詠も寄せられた、56頁の堂々たる誌面だった。『青騎兵』はその後も誌名を変え、同人が亜騎、岬、冬木、足立、藤吉で『牙』を昭和八年春に出し、24頁の活版刷りになった。これは5号で終り、最後に『以後』を昭和12年4月に出し、二冊(?)で終る。(石神井書林目録による)

興味深いことに『以後』の表紙はこの連載の24回で紹介した青柳喜兵衛の墨書を使っており、これは同人の岬弦三が女性のことで九州へ逃亡した折、『とらんしっと』の連中の世話になり、青柳とも知り合った縁であるという。まさに縁は異なもの、である。

ところが昭和15年、足立氏が中国戦線に応召中に、かの神戸詩人事件で同人の亜騎と岬が、党と何の政治的つながりもないのに検挙され、二年間の拘禁生活を余儀なくされる。亜騎はシュルリアリズム詩、岬は人生派のすぐれた詩を発表していたにすぎぬというのに・・・。

この事件は戦後も32年になって詳細がやっと明らかになったもので、その報告を読むと全く理不尽の一語に尽きる。亜騎は戦後も一切の証言を拒否し続けた。

本書では、こうした同人達の各々の風貌や人生の軌跡がきちんと追跡され、くっきりと描かれている。文学の絆で結ばれた、まことに長きつきあいである。

ここに特記しておきたいのは、前に紹介した神戸、上筒井にあった白雲堂が本書でも描かれていることだ。当時、関西学院中学が上筒井にあって足立氏が通っていたので、帰りなどによく寄っていたらしい。

氏は書いている。「白雲堂なら、わたしもよく知っていた。上筒井の電車通の浜側にある大きな古本屋だ。そのあたりには古本屋がならんでいたが、なかでも白雲堂は一番大きく、すぐ近くに支店も出していた。」「広い店のなかは天井が高く、古本がぎっしりならべられ、むっとするような紙のにおいが立ちこめている。」

氏は白雲堂で葉山嘉樹の『淫売婦』や平林初之輔の『日本自由主義発達史』、雑誌『文芸戦線』『戦旗』などを買って読んでいる。詰襟服の店の少年店員が、探している本や雑誌が入ると発禁前のをそっと回してくれたという。

さらに興味深いのが『青騎兵』や『牙』の同人でもあった冬木渉が灘の北、原田の森近くに開いていた小さな古本屋、博行堂のことである。その近くには店主がエスペラント語を勧めるエスペロ書店や兄弟でやっている宇仁菅(うにすが)書店もあった。(後者は現在も阪急六甲北で健在だ。)

博行堂は「間口一間半の、奥に深い洞窟のような店である。その奥の売り台の前に冬木は両肘をつき、ニッケルぶちの近眼鏡をかけて目玉を光らせている。」などと描写されている。

ここが『青騎兵』の発行所兼印刷所でもあるので、同人達のたまり場になり、彼らはしょっ中、売り台の横に坐りこんでは話しこんでいた。そして奥の狭い一室に集まって、足立氏が原紙を切り、冬木の謄写版で四六倍判、8頁の表紙、本文を50部、半日係で刷り上げ、皆で製本した。

店はあまり繁盛しておらず、「客が本を求めると、冬木は『カバーにしましょうか?包みましょうか?』と聞く。その注文に応じて、外国の古雑誌をバラした紙でカバーをかけ、あるいはくるむのだけれど、その手つきは丁寧でおそろしく速い。横文字の上質紙のカバーは、ちょっとハイカラに見えた。」ともある。古本好きにはこたえられない描写である。

冬木の店はしだいに商売が傾くが、戦後すぐ、元町で露天の古本商をやって成功し、後に小売書籍商として活躍したそうだ。

もう一軒、亜騎の家の兵庫の羽坂通り近くに古本屋があったが、その店主、八木猛が検挙された亜騎の残された家族の世話をしていた。この八木猛が戦後いち早く、港川でバラック建ての古本屋「ロマン書房」を開き、神戸の詩人たちが小林武雄や亜騎を中心に結集して創刊した詩の同人誌『火の鳥』の発行所となった。

終戦後、偶然出会った昔の詩の仲間が足立氏を連れていったのが、このロマン書房だった。六畳の小部屋で同人たちが集まって『火の鳥』創刊への熱い議論を交わしていた。

実は、昨年私は、久しぶりで上京した折、友人の古本屋、玉晴さんの店で、中野繁雄という未知の人の詩集『都会の原野』(昭21年11月刊)を偶然見つけ、奥付を見ると、発行所が神戸市福原町のロマン書房となっているので、神戸の出版物に目の無い私は買っておいたのだ。

「都会の原野」見開き頁
「都会の原野」見開き頁

小型本ながら、本文が金銀の模様入りの美しい和紙に刷られた凝った造本である。しかし、この出版社がどんなところなのか、皆目調べる手がかりがつかめないままだったのである。そこが古本屋だったとは!

古本屋が出版もやっていた例は割に見られ、東京では、戦前、尾崎一雄の『長い井戸』や『南の旅』、宮内寒彌の『からたちの花』などの文学書を出した早稲田の大観堂、中原中也の處女詩集『山羊の歌』や宮沢賢治の最初の全集3巻などを出した文圃堂がよく知られている。神戸でも前述の二軒が詩人たちの出版に貢献したのである。

なお、新開地の古本屋、上崎書店、上崎哲夫氏の興味深い自伝『新開地春秋』(昭63)によれば、上崎氏も戦前戦後、松本尚山『手拭いの使い振り』落合重信『神戸和歌史』など十冊程を刊行している。

『親友記』には、他にも戦前すでに阪急電車で女学生専用の車両が走っていたことや、宝塚の劇場で「吼えろ支那」や「アジアの嵐」といった男女出演の公演があったことも伝えていて、私は初めて知った。

今回は、私の関心や疑問に次々と答えてくれる得がたい読書体験であった。『夕刊流星号』など未読の足立氏の本も読みたいものだ。

(付記)脱稿後、たまたま神奈川、新村堂の昨年の古書目録を見ていたら、中野繁雄が昭和16年に出した『戦線民謡集 今日もまだ生きている』が出ていた。タイトルからすると、多少反戦的な匂いもする。さらに、その後、最近出た中野書店の目録にも、詩集『み民われ』という棟方志功の装幀、函入りで、見返しにも棟方の絵入りの本が昭和17年、積善館から出ているのが載っていた。さらに、昭和34年にも詩集『象形文学』が志功装で白羊社から出ている。棟方との交流が深かったのだろうか。なかなか多産な詩人だったようである。このように私にとって古書目録は常に貴重な資料となっている。


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