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古書往来
22.自筆原稿流出の謎を追う

今回は、古本業界のどちらかといえば影の部分の話をお伝えしよう。

最近、『彷書月刊』の<ホンの情報>欄に雑誌「新日本文学」650号(2004年、七、八月合併号)の面白そうな記事を紹介していたので、旭屋にのぞき見に出かけたところ、あいにく品切れとのことなので、珍しく注文した。

私はここ数年来、新刊雑誌はめったに買ったことがないのだが・・・。

約60年続いた「新日本文学」もあと二号で廃刊になるという。

その号で読みたかったのは小沢信男氏の「灰のなかの不死鳥たち ―― 本誌掲載原稿流出事件顛末記」6頁分のみである。

とくにそのサブタイトルに興味をそそられたのだ。手に入るとすぐに読了したが、私の好奇心(のぞき趣味か?)は大いに満足させられた。要約して紹介しよう。

小沢氏は昨年、古書会館落成記念会に出席した手土産に「明治古典会古書入札大目録」をもらうが、そこに長谷川四郎、菅原克己、黒井千次氏の自筆原稿が出ており、いずれも「新日本文学」に以前発表されたものだった。

実はそれまでにもその兆候はあり、小沢氏自身の原稿が昨年、中野書店の目録に四点載ったり、同年秋の早稲田青空古本祭りの目録にも様々な文学者の掲載稿が18点載っていて、愕然としたという。

長年、会員で会務の責任者もしていた小沢氏だが、所蔵原稿を売り立てたことは断じてない。そこで、明治古典会の某幹部に単刀直入に問合せてみて、やっとその流出ルートが判明した。一九八七年夏、会の旧館を改築のためとりこわすので、保管原稿を当時事務局長であった西原啓氏の大邸宅にどっと運びこんだ。

「新日本文学」表紙
「新日本文学」表紙

ところが翌年の元旦、西原氏宅が全焼してしまい、西原氏からの「焼跡を片づけねばならないが、会から預かったものをダメにしてしまった・・・」という連絡に小沢氏はとっさに「お気がねなく、いっさい捨てて下さい。皆にもそう伝えます」と、答えた。氏はそれらは全て灰となってゴミ処理されたものと確信していた。

ところが、である。氏はこう報告している。

「西原氏の焼跡の、黒い灰の山を片づけてゆくと、ダンボール箱がいくつも現れたのだ。焦げたり、冠水したり、なんともなかったり。残土は夢の島へ行っただろうが、紙屑類はリサイクルコースにのって建場へ。建場から、古書の市へ。紙屑を文化財にする錬金術師たちが、そこらに群居しておられるのだ。」と。

何のことはない、責任の所在は大方、自分にあり、こうした事態を招いたことを伏してお詫び申しあげます、と結んでいる。もっとも、これを読む限り、氏には不可抗力だった部分が大きいが・・・。

近年、古書業界では作家・詩人の自筆原稿や書簡、歌人の短冊、画家の挿絵原画などに人気が集まり、高い値段が付いているが、私などには縁の遠い世界である。主に、各文学者の記念館や図書館、さらには原稿に加筆、修正された跡をたどって創造の過程を調べるのに文学研究者が購入するのだろう。

その古書店への流出ルートはむろんシークレットゾーンに属するので、めったに明かされることはない。小沢氏の報告で、こんなケースもあるのだ!と感じ入った。

もう一つ、容易に想像できるのが、元文芸編集者ないしその家族が、退職後か本人死亡後、大事に保管していた担当作家の原稿や手紙類を何らかの事情で古書店へ流すケースだろう。もちろん、日本近代文学館などへ寄贈する場合の方が多いと思うが。

「すぎ去ればすべてなつかしい日々」表紙
「すぎ去ればすべてなつかしい日々」表紙

たまたま私が古本で読んだ一例をあげてみよう。

永瀬清子『すぎ去ればすべてなつかしい日々』(1990年、福武書店)は、1906年岡山生れで、詩集『あけがたにくる人よ』やエッセイ集『女詩人の手帖』などでよく知られたすぐれた詩人が、新聞に掲載した自伝的エッセイをまとめたもの。

この本自体も一気に読ませる面白いもので、とくに永瀬氏の若き日、東京在住の折、昭和9年、まだ世に殆んど知られていない宮沢賢治の『春と修羅』を草野心平からすすめられて読み、感動したこと(心平氏は新宿の夜店でそれが積み重ねられ投げ売りされているのを見つけ、全部買ったという! 今では賢治ファン垂涎の希少本だ。)や賢治死去の同年九月、新宿の喫茶店「モナミ」で催された追悼会で、弟の清六氏がもってきた賢治の原稿がずっしり詰まったトランクの裏のポケットに入った手帖を誰かが見つけ、それを読むと、あの有名な詩「雨ニモ負ケズ」が太い鉛筆で書かれており、この詩が初めて発見された瞬間に立ち会ったという件りなど、興味が尽きないものだ。

又話がそれたが、本書で永瀬氏は先輩詩人、深尾須磨子氏との深いつきあいを回想している。

一九八五年、女性誌「ラ・メール」から依頼され、与謝野晶子についてのエッセイ30枚ほどを書いた。その折、深尾さんの著作『与謝野晶子』を参考にしたかったが、あいにくその出版時、彼女との仲がまずかったときで本を貰ってなかった。

その掲載号が出てまもない頃、入院中の友人の見舞いのついでに予定外の丸善(岡山)の古書展へ行った。そこに、思いがけず、表装された故・深尾さんの真筆の軸が掛かっており、メモ用紙に「深尾氏は永瀬氏の先輩」とあった。

その出品者は顔みしりの古本屋で、永瀬氏が無事、軸を手に入れたが、店の主人にどうして私の先輩と判ったのかと聞くと、「中央公論編集部に勤めていた人が、戦時中岡山へ疎開していて、有名作家の手紙類を沢山持って居り、一本にして古書の市に出したのじゃ。その中に深尾さんのも入っていて、それは『永瀬さんをよろしく』という紹介状だった」という。

それで「はじめて私の気づかぬうちに深尾さんの恩義を受けていたことを知った」と語っている。

その日、喜んでその軸を持って帰ったところへ、又も思いがけず東京の友人女性から、所蔵の深尾さんの『与謝野晶子』が届いており、偶然の連続に驚いている。

今は作家も若い人は殆んど原稿がフロッピー渡しだから、編集者から流出しようもないが、一昔前の編集者は古本業界にとってはある意味有難い存在というか、作家にとっては油断のならない存在でもあったようだ。

最後に、一寸ミステリーじみた話も紹介しよう。

今も愛読者が多い串田孫一氏の『雨あがりの朝』(1976年、雪華社)というエッセイ集に「原稿」なる一篇がある。

要約すると、氏はある夏の日、執筆の手を休め、年に二回、真木書房という岡山(またしても!)の古本屋から送ってくる謄写印刷の目録に載っている原稿や書簡類を何げなく見ていたところ、自分の名前を見つけ、おやと思った。

それは「断崖」という題の八枚分の原稿だったが、どうしても自分が書いたという記憶がない。気にかかるので自分で買うことにして、葉書で問い合わせてみると、すでに売れたとの返事。それで、主人にその買い主を紹介してもらい、その人にていねいに手紙を書いたところ、その原稿をコピーして送ってくれた。

それを見ると、昭和15年3月20日という日付も入っているが、やはり自分の字ではない。ところが、その原稿用紙はその頃氏が使っていた自家製のもので、そのサインもある。

それで、あれこれ思い出してやっと唯一思い当ったのは、その原稿用紙を刷ってくれた印刷屋の知り合いの人で、当時氏ら数人がやっていた同人誌の仲間に入りたいと言ってきた人があったが、何だか少し変な人なので断ったことがある。その人がその原稿用紙をもらって「断崖」を書き、氏の名前を入れたのではないか、と推理している。

氏は終りの方で「三十年近くどこをどう廻って岡山の古本屋が手に入れたものか、私はもうそんなことを調べるのは面倒になった」と嘆息している。

自筆原稿や署名本に必ずつきまとうのがこのような真贋問題だ。

研究者やそれらをよく扱っている古本屋ならともかく、素人には真贋を見分ける力などなく、その作家の大ファンなら、見つけた喜びが大きく(とくに署名本を安く見つけた場合は)経済さえ許せば買ってしまうのが人情であろう。

ところで、おまえも編集者なのだから、何かやったことがないのか、ですって?ウーン、何とも答えられませんね(顔面蒼白)。

もっとも、私は文芸編集者ではないので、そんな儲かるような材料とてありませんが・・・。


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