文・栗本智代、写真・小谷 光

【著者プロフィール】
栗本智代(くりもと・ともよ)
1965年吹田市生まれ。大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所主席研究員。奈良女子大学卒業後、大阪ガスに入社。1991年より現職。大阪の活性化の一環で、都市の個性や魅力を、歴史や文化的側面から探求。「なにわの語り部」公演活動も展開する。著書『大阪まちブランド探訪』(創元社)、『大阪水の都に浮かぶ劇場』(KBI出版)など。
創元社
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信仰のまち上町台地、時空散歩

落語家と行く、上方芸能の舞台

 寺社仏閣が集まる地域には、歴史的な建造物をはじめ昔のまちの賑わいや故事を刻んだ石碑などが数多く残っている。しかし、当時の雰囲気や人々の視線、価値観まで感じることはなかなか難しい。資料や伝説はおおいに参考になるが、特に古典芸能の作品に触れると、時空を越えた当時のまちへ、意外とすんなりと降り立った気になる。文楽・歌舞伎や能・狂言などの作品は、フィクションの物語の中にノンフィクションの要素がふんだんに織り込まれているため、登場人物の立場に入り込みながら、周辺の情景もわかってくる。また、落語も、落語家の話芸によって、庶民の目線で描かれた出来事、デフォルメされたまちなみや名所、当時の風俗も感じることができる。
 そこで、古典芸能が大好きだという落語家の桂吉坊さんといっしょに、時空散歩よろしく、天王寺周辺から寺町界隈を回遊することにした。「よろしくお願いします」と現れた吉坊さんは、やや渋い萌黄色の着流し姿。よく似合っている。

「天神山」の舞台――一心寺から安居天神へ
 まずは、「お骨納め」の寺として有名な「一心寺」から訪ねる。宗派を超えて納められたお骨でつくられた「骨仏」が造立されている。寺の山門が何とも目立つ。1997年完成、両脇には、彫刻家・神戸峰男による阿形像・吽形像があり、堂々と立ち睨んでいる。参詣者を加護しているとのことだ。吉坊さんに印象を聞くと「立派ですねえ」とつぶやく。
 一心寺と安居天神は、「天神山」という落語作品の舞台である。筋書はこうだ。一心寺の墓を見にきた男が骸骨を拾ったことで、その主である幽霊を妻にした。それをうらやましく思ったやもめの隣人は、安居神社で「嫁さんが欲しい」と祈る。と、助けた狐が女に化けて押しかけ女房となるが、ある日正体がばれて狐は天神山へ帰った。「恋しくば尋ね来て見よ南なる天神山の森の中まで」と書き置きがあるのは、葛の葉子別れ伝説のパロディである。
 作品の中では、骸骨が転がっているような墓地として描かれているが、現在の墓地は境内とともに、掃除や手入れが行き届いている。もと住職で現在長老、建築家でもある高口恭行氏が自ら設計した「日想殿」は、現代的な仏教建築といった粋な雰囲気である。都市型の寺院として機能的になった反面、吉坊さんが作品を通して抱いていたイメージ、つまり古典落語がつくられた時代の空気感が薄れているのは確かである。
 一心寺には、有名人の墓碑が数多くある。山門脇の目立つ場所にあるのは、八代目市川団十郎墓。背の高い石碑である。歌舞伎も好きな吉坊さんは、「八代目は、江戸後期に人気を集めた俳優でした。当時、父親の借金を返すために約束した中座への出演と江戸の市村座の出演と予定が重なってしまって、板ばさみになって自殺したんですね」と話す。2004年3月には、現在の第十一代海老蔵(当時新之助)が襲名することをこの寺に報告に来たという。また、酒封じのご利益があるという「本多忠朝」墓、北門の西側傍には、二代目林家染丸墓もある。社務所でもらえる「一心寺墓碑銘々伝」というリーフレットは、33件ほどエピソードが記されており、興味深い資料になっている。
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resize_DSC9279.jpg 続いて、逢阪を挟んで向かいにある「安居天神」へ。祭神は少彦名神と菅原道真公。一心寺とは対照的に、うっそうと繁る木々に囲まれた静かな社である。狐が出てきても不思議ではない雰囲気だ。「今でも狐の穴がいくつもあると聞いたことがあります」と言いながら、拝殿する吉坊さん。その姿をみて「あ、もしかして、落語家の?」と声をかけてきたのは、宮司の中島一凞(かずひろ)さんである。「ようこそ、お参りくださいました。奥のほうへ案内しましょう。今は防犯上、鍵をしていますがね」と、本殿の裏手へ導いてくれた。小高い丘に笹薮と雑草が生い茂っており、さらに昔の様子が思い起こされる。「この裏手が天神坂ですね。動物や幽霊が出てきそうですって? ははは、今は狐は出てきませんよ。ここは、大坂夏の陣で、豊臣方についた真田幸村が戦死した跡として、よく知っていただいています。講談をはじめいろんな舞台やドラマでも、皆さんに馴染みが深いようですね」と話す中島宮司さん。「真田幸村戦死跡之碑」と記された大きな石碑は、1919年(大正8)に建てられたものだそうだ。何匹も住み着いているというネコが、草むらの中、我がもの顔でのんびりくつろいでいるのを見ていると、ここだけ時がゆっくりと流れているような気がした。resize_DSC9283.jpg
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合邦辻閻魔堂から四天王寺へ
 逢阪を少し西へ行き、松屋町筋を渡ると、摂州合邦辻閻魔堂が静かにたたずむ。逢阪と、そこから南へ向かう街道筋の交差点が合邦辻で、閻魔堂はその東南角にあったが、1877年(明治10)に、明治天皇住吉行幸の際、道路拡張工事のため西方寺境内に移されている。
 表札には、大きな筆文字で「脳の守り本尊 えんま大王」。本尊の閻魔大王は、首から上の頭や脳、咳の神様として知られる。浄瑠璃や歌舞伎の「摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)」の作品の舞台である。
 この作品には、河内国の城主高安左右衛門の息子俊徳丸が登場するが、四天王寺にゆかりの「俊徳丸伝説」に由来したものである。河内国高安に住む若く聡明な俊徳丸は隣村の蔭山長者の娘と恋に落ちるが、継母に憎まれ失明させられ家から追放されてしまう。その後四天王寺境内で物乞いをする身となるが蔭山長者の娘と再会し、涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、俊徳丸の病気が治り二人で幸せな人生を送ったと伝えられている。この俊徳丸の伝説から、説教節「しんとく丸」や能の「弱法師(よろぼし)」ができ、継母の継子への恋がモチーフに加えられた「摂州合邦辻」で、主役である玉手御前が最期を遂げたのがここ「合邦庵室」とされている。
 道中、吉坊さんがこう話す。「落語でも『弱法師』別名『菜刀息子(ながたんむすこ)』という作品になっています。僕の師匠の吉朝の最後の高座がこの作品でした。おこもさん(乞食)がたくさん出てくるシーンが出てきます。『天王寺詣り』にも同じような場面はありますが、僕はその時の弱法師のほうが、生と死がより近かった当時の時代の空気を感じました」
 落語は、笑いの中に、当時の死生観や暗く重いものも滲ませながら伝えられているのだと気づかされる。吉坊さんも、落語を演じる中で、当時の境内やまちの雰囲気を想像するのだが、実際に足を運ぶと、現代の目の前の風景との違いに、やや戸惑うこともあるという。「失われたのは、目に見えないもの、たとえば神仏への思いでしょうか。たとえば、生き別れた人に会えるとか、傷が治るとか、その場所が四天王寺だったというのも、お大師さん(弘法大師)のご利益であるという信仰が、古典の作品にしっかり埋め込まれてあるんですね。それだけ生活に信仰というものが近かったのではと思います」
 今の世に信仰心がなくなったわけではない。偶然、この日は21日、弘法大師の命日ということで、四天王寺をはじめ界隈は人出が多い。彼岸になるとさらに大変な賑わいという。しかし昔と比べると、概して人々の表情に悲愴感はあまりなく、天の力、神や仏への畏怖が弱まっている傾向にあるのは確かだ。一方で、信仰や価値観も多様化する今日、それでもこれだけ大勢の人がわざわざ手を合わせにくるという風習、文化が伝わりこの地に残っていることは、大変貴重でありがたく思える。
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四天王寺合法辻(『浪花百景』)★画調・レタッチ・トリム.jpg