文・栗本智代、写真・小谷 光

【著者プロフィール】
栗本智代(くりもと・ともよ)
1965年吹田市生まれ。大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所主席研究員。奈良女子大学卒業後、大阪ガスに入社。1991年より現職。大阪の活性化の一環で、都市の個性や魅力を、歴史や文化的側面から探求。「なにわの語り部」公演活動も展開する。著書『大阪まちブランド探訪』(創元社)、『大阪水の都に浮かぶ劇場』(KBI出版)など。
創元社
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継承される信仰と情景、そして食べもん

住吉界隈で大阪人の原風景を味わう

 住吉といえば、「住吉っさん」こと住吉大社が有名である。大阪の総鎮守、総氏神といわれ、古くは、摂津国の一の宮(いちのみや)、平安時代に国々の国司が巡拝するときに一番に参拝した神社であり、奈良時代から全国的に屈指の神社だったという。しかし何の神様なのか、どんなご利益があるか意外と知られていない。さらに神社周辺のまち並みも古く、伝統的な町家や老舗が残っており、駅前の粉浜商店街を含め、地元ならではの"美味しいもん"が受け継がれているという。
 そこで、住吉界隈のまち歩きガイドや地域イベント企画などに活躍している、YUI企画の山田重昭(しげあき)さんにお願いして、案内してもらうことにした。
 
住吉大社の境内へ―朱塗りの反橋を渡る
 南海電車の南海本線「住吉大社」駅前からスタート。東へ進むと、すぐに阪堺電車の「住吉鳥居前」駅があり、路面電車が往来する。「ちんちん電車が走っているのが、紀州街道になります。昔は住吉大社駅前から、紀州街道沿いに料亭や土産物屋が並んでいました。今、警察署がある場所は、昔は"三文字屋"という料亭で、赤穂浪士に関係する逸話も残ってます」と、その頃のイメージ図を取り出して山田さんの解説が始まった。赤穂浪士を資金面で援助した天野屋利兵衛(あまのやりへえ)が、討ち入り用の槍を堺の職人に頼んだ。その臨時収入で職人たちが豪遊した店が、三文字屋。居合わせた町奉行に怪しまれ、利兵衛が捕縛、拷問されたが、「天野屋利兵衛は男でござる」と、口を割らなかったという。
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 そんな話を聞きながら、住吉大社の最初の鳥居をくぐると、シンボルである太鼓橋が現れる。朱塗りで弧を描いたその姿はなんとも優美で、真正面から見ると急な階段が空へ上っている印象だ。「正式には、反橋(そりはし)。秀吉の側室であった淀殿が奉納したもので、石造りの部分は、当時のままです」と言いながら山田さんは、橋を渡るよう勧める。一段一段しっかりと高さがあり、上りではまっすぐ足を運ぶと、かかとが宙に浮いてちょっと怖い。「昭和30年代までは、階段がなく、穴があいているだけでした。上りはつま先、下りはかかかとをひっかけたんですね。渡るだけでお祓いを受けたことになりますが、真ん中だけは、神様が通る場所なので避けて通ります」という山田さん、まち歩きガイドをするたびに渡っているので、慣れた足取りである。
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「住吉さんでぜひ見てほしいのが、石灯籠です。これは特に大きいでしょう」と山田さんが指す方を見上げる。「翫物商(がんぶつしょう)」と記されている。翫物つまり、玩具、おもちゃ屋さんが、住吉講を組んで奉納したもので、1762年(宝暦12)に築かれてから、時代ごとに底辺に追加分が積み重ねられ修築されてきたという。信仰の証と広告の両方を兼ねていたそうだ。この灯籠の近くに、井原西鶴の句碑、川端康成文学碑も立つ。
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鎮座1800年を迎えた、国宝の神殿
「では、お参りをしましょう。この住吉さんの鳥居は特徴的です。脚が四角柱なんです。普通は丸いでしょ」と山田さんが解説する角鳥居の前で一礼。くぐって少し進むと視界が開け、丹塗(にぬり)の柱と桧皮葺(ひわだぶき)が目に飛び込む。妻入式切妻造の本殿は、最古の社殿建築様式という。古代の建造物が持つ風格と厳粛な空気感に気が引き締まる。
 住吉大社は、神功皇后が、新羅出兵の際に力をいただいた住吉大神〈底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神〉のお告げで、西暦211年の卯の年卯の月卯の日に大神を祀る場所をこの地に定めたことが起源だといわれている。この三神が第一から第三本宮に祀られており、神功皇后が第四本宮に祀られている。
「本殿の配置が、ちょっと変わっています。奥から、第一、二、三と並び、第三本宮の南側に第四本宮があり、みな西を向いているんです。これは住吉大社独特で、まさに、遣隋使、遣唐使を見送った海の神様といえます。2011年、住吉大社は、鎮座1800年を迎えました」と説明する山田さんだが、「もっと詳しいことは、住吉大社の権禰宜(ごんねぎ)さんに聞きましょう」と、一緒に会うことにした。
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住吉ゆかりの食材―白砂青松の浜は、潮干狩りの名所だった
「今日はようこそお越しくださいました」と、笑顔で出迎えてくれたのは、権禰宜の小出英詞(こいでえいじ)さん。山田さんとは、イベント企画やまちづくりの会合などで、ずいぶん親しそうだ。
「大阪の歴史的中心地というと、大阪城や大大阪時代の船場や天満をイメージする人が多いんですが、実はもっと以前、たとえば400年前、宣教師のルイス・フロイスが来た頃というのは、石山本願寺はあったけれど大坂という概念はまだはっきりなかった。そのずっと前から四天王寺と住吉の界隈は栄えていたんです」と、小出さんは語りだした。
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「住吉大社の参道は短いなあ、と感じませんでしたか? 実は、南海住吉大社駅の西側、現在住吉公園になっているところも、ずっと参道になっていて、公園を抜けたところに走る国道26号のあたりに、大鳥居があったんです。その向こうは、近世以前は海で、白砂青松といわれた浜が広がっていました」。現在とかなり地形が異なるようだ。
「万葉集でも記されています、住吉の浜辺で鯨を捕っていたと。"いさな捕り"と呼んでいたようですが、大阪には鯨を食べる文化がありました。実際に鯨がよくやって来てしかも遠浅だったので、屋形船で見に行く人も多かった。鯨は海の神様のお遣いで、住吉さんにお参りに来たんだと考えられており、供養の意味でもよく食べていました。鯨の山車をつくって、堺の出島漁港から住吉まで練り歩く祭りもありました。信仰とともにレジャーも伴っていたんです」と小出さんは説明する。
 海の神様の住吉、食のまち大阪、そして漁業を象徴する存在として、鯨は要の食材だった。堺の北部はもともと住吉郡で、住吉と堺は、一括りに考えられていた。住吉の夏祭りも、堺の夏の大イベントである大魚夜市ももとはひとつだったという。大和川が付け替えられて、住吉と堺が分断される一方で、土砂がたまり、浜はますます遠浅になっていった。
 小出さんの詳しい説明は続く。「この遠浅の砂浜で潮干狩りがよく行われて、年中行事になっていました。蛤(ハマグリ)がよく採れたんですが、若い女性が絹の着物など着飾ってくるんです。不思議に思うでしょう。実は、一大社交場になっていたんです。潮干狩りの時は、女性も着物の裾をまくる。そしたら足が膝のあたりまで覗くでしょう。それを男性が見に来て、恋の鞘当てをする。今でいう合コンのような感じでしょうか。また、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんがゴールをしたのは、住吉なんですよ。そこで住吉詣の土産として蛤が紹介されています。明治天皇も住吉で蛤を食べ、おいしかったと仰ったそうです」。実は、その住吉名物"蛤"を復活させようと、2011年の正月に、住吉大社吉祥殿で「はまぐり弁当」をつくって限定販売している。「飯蛸(イイダコ)もたくさん採れていたんです。社務所を建て替える時、蛸壺が地中から出てきましたから。明石の蛸とよく言われますが、昔は、明石までが漁場としての圏内でした。明石と住吉は、船でよく行き来していた、海でつながっていたんですね。イカ焼きも、住吉の初詣の屋台で出たのがはじまりで、露店で売られるようになったようです」と小出さんが次々と食材を挙げる。
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