アートなミナミを回遊する[後編]
道頓堀の銘板からウクレレまで
道頓堀更科にて お昼になったので、「道頓堀更科」に入る。
「ようこそ、おいでくださいました」と女将の堀寿美子(すみこ)さんが歓迎してくれる。「先代の堀奈良三郎さんが亡くなられたので、昔のことを一番よく知ってはる人」と橋爪さん。寿美子さんは、なんとも丁寧に、一言一言かみしめるような話し方で「今は、息子の寿郎(ひさお)が店長を継いでくれています。味が変わらないようにがんばっています」。寿郎さんは、「更科の一号店は、新世界なんです。1903年(明治36)の第5回内国勧業博覧会の時、東京から出店されて、そこからの暖簾分けですね。チェーン店とは違うんです」と話を継ぐ。
店の前は現在、空き地なのだが、道頓堀五座と呼ばれた小屋が建っていた。弁天座、文楽座、朝日座、とその時代で名前を変えてきた。もとは、「竹田の芝居」といって、からくり芝居が行われ、今の文楽の起源となった。そんな芝居小屋の前にあったのが更科。戦前は、弁天座前の現在の場所だけでなく、以前くいだおれビルのあった場所、かつては、道頓堀を代表するカフエー「パウリスタ」の跡地と、二店舗あったようだ。
「店の前の朝日座で文楽が上演された時代に通ってくれていたお客様が、今も元気で来てくれるんです。五座はなくなったけど、ここはまだある。味も変わらないと、喜んでくださってねえ」と嬉しそうに寿美子さんは話す。
「お待たせしました」。ざるそばがきた。更科の蕎麦が白いのは、手間をかけて蕎麦の実の皮をとりのぞいて、実の中心部分だけ挽いてつくるから。非常に粒子が細かく上品な味わいに仕上がるという。やや細めなので、つるつるとのど越し良く滑らかで、癖になりそうな美味しさである。ふとメニュー表を見ると、「なたね」「いり鳥」とある。どんな料理だろう。「これ、更科さん独自のメニューですね」と橋爪さんが話題にすると、「新世界の店から、そのまま持ってきたメニューです。よろしければ」。というので、つくってもらった。
「なたね」とは、菜の花のイメージで、えびを卵でとじたもの、「いり鳥」は、かもと玉子の炊き合わせ。いずれも、しっかりした味付けで、お酒と一緒に、あるいはご飯とあわせていただくとより美味しかった。


店内の奥の壁に、手書きの詞章が大きな額に入って飾ってある。芝居小屋の開幕前や芝居がはねた後に、暖簾をくぐってくるお客が絶えなかったことや、芝居小屋の楽屋に蕎麦の出前をして、目が回るくらい忙しかった頃のことが詠まれている。「興行がかかると、毎日忙しかったですね。松竹座から朝日座までねえ。今はさみしいねえ」。そうか、役者さんは、ここから出前をとっていたんだなあ、と芝居小屋が並び、往来の客でにぎわう当時の様子に思いをはせる。文楽のかつての本拠地だった朝日座跡地が空き地のまま、というのも、本当にもったいない。「堺筋から直接、トラックなども入れて、大きな道具も搬入できる。立地からしても、劇場や博物館のような文化施設をつくるべきだと思うんやけど」という橋爪さんに私もいたく同感する。


「寿郎さんは、先代に似てはりますねえ。ところで、表の看板に"白い蕎麦"とありますが、店の名前、変えたんですか?」と橋爪さん。寿郎さんは、苦笑いしながら「最近このあたりは、若い人だけでなく、外国人、特に中国のお客様が多いんです。それで、白い蕎麦をみて、これはラーメンですかって聞くんですよ。それで、誰にでもわかるように、看板にしたんです」。日本橋あたりに、ずらりと中国人の観光バスが並ぶことが増えている。観光客にあわせて、まちの看板や店のメニューが次々変わっていく。その中で、昔とまったく同じ場所で代々続く味を受け継ぐ更科。"食いだおれ"の内容が変わりつつある道頓堀の中でもいぶし銀のような存在である。
GALLERY AMI & KANOKO
「この近くに、ちょっと変わったギャラリーがあって」という橋爪さんについて、更科から南へ数分歩くと、小さな古い町家があった。木の板に、「画廊 編 ぎゃらりー かのこ」とある。白い壁に飾られている作品は、道路からもよく見える。
展覧会を企画運営しているアートディレクターの中島由記子さんに話を聞いた。「実はここは持ち家で、約60年前に曽祖父がこの家を宅地風に建てたんです。でもほとんど、個人やテナントに貸していて、1999年に借り手がなくなった時、ちょうど、町家がアーティストのアトリエとして人気があるとニュースで聞いたので、知人のアーティストに話を持ちかけた。そしたら中島さんが画廊をしたらどう?と逆に提案されてしまって」と、きっかけを話す。ギャラリーとしてスタートしたのは、翌年の2000年。もともとアート作品に興味があったという中島さん。「最初は知人の展示会をしましたが、あちこち、画廊を見に行って、気に入った作家さんを見つけたら声をかけて、うちでやってもらえないか、お願いをしましたね」。今では、学校を卒業して間もない若い作家からいわゆるプロの作家まで、そして地元から海外の作品まで展示販売している。「自分の目と、当人に会った勘で、選びます」。ギャラリーのネーミングについては、「糸偏の文字が好きで。かのこは鹿の子模様からきていて、縦糸と横糸でつむぐ、つむいで織り成す、という意味をこめています」。自主企画もするが、場所貸しも多い。場所代は、若い作家を発掘して育てるための協力費だとも考えているという。
2階へあがると、床の間のある6畳の和室に、さまざまな器が展示されていた。
「白壁の中で作品を飾るのは、かっこよく見えますがちょっと飽きてきてね。住まいに近いところに作品があれば、買い手も、それを自分の家に置いた時どうか、というイメージを持ちやすいですし、作家さんも、住まいの中でどうありたいか、と考えて作品づくりをするので、なかなかいいでしょう」と中島さんは微笑む。2階の窓から見える景色は殺風景な気がしたが、作品を前にして畳の間に座ると、妙に落ち着く。中島さんはここの立地はまったく気にしていないという。「展示の内容ばかりを考えてます。人によっては、神戸や芦屋で画廊をした方が作品が良く見えるよ、という人もいますが、いい作品があれば、たいていの人は足を運んでくれます。高級車で遠方から乗り付けてきてくれる人もいるんです」と、マイペースで自然体で運営しているようだ。ミナミの喧騒の中で何気なく存在する町家ギャラリーのありようが新鮮であった。

