アートなミナミを回遊する[前編]
心斎橋筋界隈いまむかし
大阪が「天下の台所」と呼ばれるほど栄えていた近世、物資を運ぶ船の航路となった堀川がめぐらされていた大阪はまさに水の都であった。その堀川のひとつ、長堀川の開削にあたった4人のうちの1人、岡田心斎が、川の南北往来のため、橋を架けたのが「心斎橋」である。「心斎橋筋」は、本来は御堂筋の一筋東の、南は道頓堀から心斎橋を経て土佐堀川に至る街路の名前であった。「心斎橋筋」が発展したのは、大阪唯一の公認の遊郭であった新町と、芝居小屋が集まっていた道頓堀を結ぶ道筋であったという立地が大きな要因のひとつである。江戸後期にはすでに栄えており、明治以降、大阪のモダニズムを代表するエリアへと変化を遂げる。
今回、案内をお願いしたのは、大阪大学総合博物学術館教授の橋爪節也先生。島之内で生まれ、幼少の頃からこの界隈を日常的に歩いていたという。「昔、大阪市中心標があった大丸の東南角からつーっと東へ歩いて数分で自宅。昔の南区竹屋町です」と、独特のやわらかい口調で話す。美術をはじめ幅広い視野で、エネルギッシュに大阪の探索・研究を進めており、多彩な歴史資料のコレクションを活用した発信活動は、近年、加速度を増している。
「まずは心斎橋。本当に心斎橋っていう橋が架かっていたことも今の若い人は知らんから。今、実際に昔の橋が残ってるのは知ってはりますか?」
心斎橋と中尾書店 明治維新後、大阪では人々の注目を集めたのが、心斎橋であった。「1873年(明治6)に木橋から鉄橋へ架け替えられた時は、まさに文明開化の象徴だった。錦絵や銅版画による大阪名所案内に描かれたり、写真など絵葉書としてもいろいろ残っているのがその証拠ですね」。特に橋爪さんが高く評価するのが、大阪を代表する浮世絵師の長谷川小信(このぶ。1848~1940)の心斎橋鉄橋図である。「いろいろなアングルで、角度を変えながら何点も描いていて、強烈な赤と空の藍の対比が特徴的です。精力的なあまりに、立体的に表現したいと、立版古(たてばんこ)までつくってしまったからすごい」。立版古とは、今で言うペーパークラフト。芝居の名場面や四季の行事など、組み立ててろうそくの灯で照らして、雰囲気を愉しんだという。
「この立版古、実は、中尾書店に原本がある。それで、それをもとに復刻版を刊行したので、今は誰でも入手できて実際に組み立ててみることができます」

というわけで、心斎橋、現交差点の南詰にある中尾書店を訪ねた。入り口に積んである和本をふと見ると、奥付に「元文元年(1736)」とある。あまりに古い。目を丸くしていると、「ここは、古書店の中でも、和書のほか、易や漢方の本が多い。古きよき古本屋です。いわゆるすぐそこにもあるブックオフのような、現代の古本屋とは対照的でね」と橋爪さんは店頭に置いてあった薄い冊子を手にする。「新菜箸本撰(しんさいばしほんえらみ)」とある。「この7号に、石橋の心斎橋のことも詳しく書いてあります。この冊子は、私が、この中尾書店さんと一緒につくっている、かなりマニアックな冊子ですけど」。橋爪さんと書店の人は、研究仲間なのか?と思っていると、店長の中尾靖さんが奥から出てきて、「お世話になっております。本当にね、橋爪先生には、いろいろ教えていただいてるんですよ」と丁寧に挨拶する。

「かつて、心斎橋は本屋の街でね、この界隈で刊行された書物や印刷物、文学者や美術家などの歴史を掘り起こしていくために、『新菜箸本撰』を刊行したんです。書名は、心斎橋に洒落て、資料を長い菜箸でつまむという当て字にしたのと、歌麿の狂歌本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』をもじったものです」
中尾さんは言う。「今の店主は私の父親の良男ですが、その昔、良男の実父、熊太郎が経営していた中尾松泉堂は、古典籍で有名で主に江戸時代の和本を取り扱っていました。良男は1967年(昭和42)に独立して現在の場所に中尾書店を開業しました。その長男の私も1985年(昭和60)から従事しています」

橋爪さんが「ついでにこれ、ちょうだい」と手にしたものを見る。それは何ですかと聞いてみたら、「灘萬食料品店の商品券を入れる袋やね」。ん、灘萬? あの「なだ万」である。創始者の灘屋萬助の名前から店名になったという。「老舗料理店のメニューが書いてあるでしょ、今は珍しいこういう資料が参考になりますねん」と橋爪さんは中尾さんに500円玉を1枚渡す。
橋爪さんの話は心斎橋へともどる。「心斎橋が鉄橋から石橋になって、後に陸橋になったのは、地元やったら知ってる人がわりと多いけど、石橋の一部が今も残ってるのは、意外と見過ごされてるんですねえ」
鉄橋から石橋に架け替えられたのは、1909年(明治42)。重厚な石材とそのデザイン、欄干にくりぬかれた丸い十字の模様や瓦斯(ガス)灯もあわせて、しっとりした叙情的な雰囲気をかもし出していた。「明治のハイカラな鉄橋に比べると、石橋の方がノスタルジック。画家にも人気で、赤松麒麟が『大阪三十六景』として版画で描き、中澤弘光は『畿内見物大阪之巻』の挿絵として描いている。闇間に瓦斯灯がともり星が瞬く薄明に生駒山の輪郭も浮かびあがっている、それを見ている人々......そんな絵です。絵葉書も無数にあって、いい写真がたくさん残っている。オモシロ大阪弁シリーズの葉書もいろんな種類があります。なかでも、北側から橋の南詰にあった石原時計店を入れたアングルが多い」という橋爪さんは、絵葉書だけでもかなりのコレクターである。


1964年(昭和39)、長堀川の埋め立てにともない、石橋の心斎橋は、そのまま歩道橋となる。しかし平成に入って「クリスタ長堀」の地下街ができる際、歩道橋は取り去られた。「銘板が残っています。石工棟梁と石材供給人の名前が刻まれている。橋柱も昔のままで、一方は漢字、一方は、かな交じりです」と橋爪さんが指差す方を見ると、なるほど、心斎橋筋の両側に"心齋橋""志んさいばし"と刻まれてある。別の箇所には、「明治四十二年十月」の文字もあった。



「横断歩道の真ん中に、橋の欄干があるでしょ。あれが当時のまんま!」。丸い十字がくりぬかれているからすぐわかる。「地下街に降りる階段あたりから見ると、今でも実際に橋がかっているように見えるんです」とちょっと声を弾ませる橋爪さん。「このあたりからぜひ見てみて! もう少し前かな......」。なるほど、めがね橋のような下のアールの部分が残っているのが見えた(写真参照)。「そらぁ、渡り初めの時は、人々が殺到して大変やった。『大阪文学』という文学雑誌の表紙としても描かれ、またマッチの箱の絵にもなったほどやからね」

鉄橋の心斎橋は、鶴見緑地に残存して、今もその姿をとどめている。価値のある遺産でも取り壊しが多い大阪で、心斎橋が初代も2代目も形をとどめているというのは、それだけ、時代を象徴するものであり、人々に愛されていた証拠であろう。