鎮魂のまち、法善寺界隈と寺町を歩く
オダサクの大阪発見
高津宮から織田作之助が眠る墓へ「次にオダサクゆかりの地といえば、少し歩きますが、高津宮ですね。境内に、梅ノ木橋(梅橋)と言って、今は川も流れていない石橋が残っています。ほんの一歩で渡れる橋で、織田はよく遊んだそうですが、ここを流れていた梅乃川は、道頓堀川の源流だという説があります」。高津宮は、落語をはじめ、古典芸能や賑わいのエピソードには事欠かない、昔ながらの趣を残す場所だ。
隣接するのは中寺町である。「本経寺」には人形浄瑠璃で、竹本義太夫と人気を二分していた豊竹若太夫の墓がある。やや北上すると、谷町8丁目の建物と建物の間に近松門左衛門の墓。もとは「法妙寺」境内にあったが、寺の移転のため現在は、ビルの谷間に埋没している印象である。あの有名な近松の墓がこんなひどい状態とは、嘆かわしい。
オダサクが、"下に行く"つまり、ミナミに通う時に通っていたのが「地蔵坂」。高津宮に北接し谷町8丁目の交差点を含む、東西にのびる道で、今では坂の勾配もほとんどわからないほどになっている。通っていた旧制高津中学(現高津高校)から、そのまま西へ高津宮を経て進むと道頓堀界隈に出る。
この地蔵坂を東へさかのぼって歩き、作之助が生まれた上汐を通り過ぎる。近くの「誓願寺」には、井原西鶴の墓がある。
生玉から高津、中寺町、上汐、城南寺町と、寺院が群れをなして見事な屋根を連ねている。特に、盆や彼岸などには線香の香りがたちこめ、エリア一帯、あの世とこの世をつなぐ異界性を極める。
そんなまちを遊び場にして育った作之助が眠る墓が「楞厳寺(りょうごんじ)」にある。
門をくぐってすぐ左手、大きな不定形の墓石に「織田作之助墓」と刻まれている。吉村正一郎の味わい深い文字。裏には、同氏の字で、藤沢恒夫の文章も刻まれている。
井村さんは、線香の変わりに手持ちの煙草を供え、「織田は、煙草が大好きだった。今日は好きな銘柄だったラッキーストライクではないけれど・・・・・・」とつぶやきながら参拝する。一緒に手を合わせたが、何を言っていいかわからず「.・・・・・・はじめまして」と挨拶した。その後方に、織田家先祖代々の墓もあり、父親の鶴吉、母親のたかゑ、幼少で亡くなった姉のことが眠る。裏には、昭和11年織田作之助建立とある。「当時織田には、とてもそんなお金はなかったから、まわりの人が助けてくれたのでしょう」と井村さん。「織田はキンモクセイが好きだったので、この寺にもたくさん植えられています」。


現在、住職である田尻玄龍さんは、旧制高津中学に大正15年(1926)に入学した9期生、つまりオダサクと同級生であり、学友として親交を深めた。その上、楞厳寺は織田家の菩提寺であるため、妻の一枝、作之助本人の葬儀も務めた。まさに生き証人である。田尻さんは、昔を思い出しながらゆっくりと語りだした。
「織田は、高津中学でも成績は優秀でした。"ガリ勉するやつは頭が悪いやつだ"と言って、あまり勉強していないように見せかけて、友達を誘って道頓堀や千日前によく通っていました。帰りには、嫁いだ姉のタツさんの家に寄って小遣いをもらっていました。卒業後は、旧制三高、今の京都大学に合格します。京都の吉田山の宿舎に下宿して創作活動をしていましたね。食べることを節約して遊びまわっていたようで、無理がたたって結核をわずらってしまいました。
私の方は、中学時代に病気で卒業が1年遅れましたが、織田とは対照的に、自宅から京阪電車と徒歩で今の佛教大学に通い、健康を回復して僧侶の道を進み、今日まで、長生きさせてもらっています」。今年(2009年)で95歳と聞き、驚いた。物腰や活き活きした肌つやから、とてもそうは見えない。社会福祉法人高津学園の理事長を務めている。「お墓は、三回忌に建立されました。今でも度々、一般の方が来られます。織田について伝えるのが、私の務めになってきましたね」。オダサクの分まで、いつまでも元気で、語り続けてほしい。
イチビリ精神でまちの元気づくりへ 井村さんは、織田作之助命日の1月10日には墓参りを欠かさない。
二十数年前、東京から堺に戻って住んだ北野田の駅前に、織田作之助と一枝のスイートホームが残っていたことが活動のきっかけとなった。以前から無頼派の作家の一人として興味はあったという。「織田作之助の魅力は、その行動力と文学にとどまらないマルチなエンターテイメント性です」と語りだしたらもう止まらない。高校教諭を務めながら、一方で、オダサク倶楽部を仕掛けた。蓄音機のコレクターや映画愛好者との出会いがあり、次第にネットワークが広がった。
「織田は、『織田作』に"オーダーメイド"とルビをふったりするような、イチビリ精神の持ち主でね。それを継承して、オダサクをダシに面白いことを企画して、まちの元気にもつながったら、と思ってね」。読書会から発展して、2001年には、第一回「オダサク映画祭」を実現させた。オダサクの原作・脚本で川島雄三がメガホンをとった「還って来た男」や「わが町」を上映し、2003年には、映画・落語・講談・乙女文楽をまじえた第二回を開催した。その後も、朗読会、オダサクが愛した音楽を蓄音機で紹介するコンサート、まち歩き、船旅ツアーと続く。夢は、オダサク自身の"生き急ぎ"の生涯を映画にすることだ。
何が井村さんをそんなにつき動かすのだろう。実は、第一回映画祭の準備中、脳卒中で倒れた。「その時、救急病棟で、織田が枕元に現れたんです。夜中、死神のような白い顔で"死んだらアカンで~あんじょう頼むよってになあ"と。それで息を吹き返しました。あの時、煙草のにおいもしました」と打ち明けてくれた。快復後は、オダサクが井村さんの生活に居座っている。「私が堺に戻ったのが33歳。織田が亡くなった年齢と同じで、まさに人生の後追いをしていますね。織田の遺言執行人にならなあかんなあ・・・・・・と」。不思議だが、やはり、井村さんとオダサクは何らかの縁(えにし)がありそうだ。「私は織田の大阪に対するものの見方をもらっていますね。大阪の陰と陽、弱いものや消されたものへの深い思い入れを、あげつらうことなく、照れ隠しでさりげなく表現する、"オダサクイズム(オダサク主義)"を自分のものにしたいです」。
井村さんは、"路地裏の感覚、有象無象の人間の濃密な人間関係がそのまま出ているのが織田作品の風合い"と表現する。それは、ノスタルジーではあるが、人にとってはかけがえのないもので、現在は希薄になっている。
「ただ過去を懐かしむだけでなく、未来へ跳ね返すようなエネルギーが織田の作品にはあります。晩年は、文化都市に進むべく大阪ルネッサンスを提唱していた。伝統に工夫を加えるという大阪らしい文化性を育てる、その一翼を、いろいろな方といっしょになって担いたい」。
織田作之助ゆかりの地は、偶然にも、あの世への路(みち)を強く感じさせる場所であり、歴史を背負う地霊に支えられた情緒が色濃い。作品を読むほどに、オダサクが描く路地裏や繁華街、そこで生きる人々は、かつての大阪文化そのものであったと感じる。そこに伴う切なさや哀しみも心に滲みる。
独特の作風に触れ、その舞台に足を運ぶことで、改めて失われた大阪の原風景に出会えるに違いない。さらに、変わりゆくまちや人の価値観、そして大阪の可能性を考えるひとつの機会にもなれば、オダサクの望むところであろう。
人は大阪に就いて三百年の伝統ということをよくいう。たしかに大阪は伝統を守ってきた都だ。今日以て伝統を守るだけなら、骨董屋のおっさんにも出来よう。大阪人を大阪人たらしめるものは、大阪人が永遠の新人だという一事だ。
「永遠の新人」より
大阪人に共通の特徴、大阪というところは猫も杓子もこういう風ですなという固着観念を、猫も杓子も持っていて、私はそんな定評を見聴きするたびに、ああ大阪は理解されていないと思うのは、実は大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬと思うからである。そして、その点が大阪の可能性である・・・・・・
「大阪の可能性」より(抜粋)



〔おすすめ参考文献〕(入手しやすい文庫版を中心に)
織田作之助
『夫婦善哉』新潮文庫/講談社文芸文庫
『夫婦善哉 完全版』雄松堂出版
『六白金星 可能性の文学』岩波文庫
『青春の逆説』角川文庫
『織田作之助』ちくま日本文学全集
『世相 競馬』講談社文芸文庫
『大阪の可能性』青空文庫(インターネット)
『大阪発見』青空文庫(インターネット)
大谷晃一『織田作之助』沖積社
大谷晃一編『織田作之助作品集』沖積社
「大阪人」2006年11月号(特集:文士オダサク読本)
「大阪春秋」112号(特集:法善寺横丁界隈)
〔カリスマのプロフィール〕
井村身恒(いむら・みつね)
1952年堺生まれ。高校教諭。オダサク映画祭をきっかけに「オダサクを"ダシ"に大阪を元気にする」オダサク倶楽部を作り、読書会やまち歩きなど様々な活動を続けている。
著書『フォーラム堺学 第6集』(堺都市政策研究所、共著)、『堺市今昔写真帖』(郷土出版社、共著)ほか、「大阪春秋」「大阪人」「上方芸能」などに執筆。