文・栗本智代、写真・小谷 光

【著者プロフィール】
栗本智代(くりもと・ともよ)
1965年吹田市生まれ。大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所主席研究員。奈良女子大学卒業後、大阪ガスに入社。1991年より現職。大阪の活性化の一環で、都市の個性や魅力を、歴史や文化的側面から探求。「なにわの語り部」公演活動も展開する。著書『大阪まちブランド探訪』(創元社)、『大阪水の都に浮かぶ劇場』(KBI出版)など。
創元社
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東横堀川界隈

大阪最古の城下町で、新旧の本物に出会う


高麗橋―大阪交通の要衝

「江戸時代、東京つまり江戸では、大阪より橋の数が多く、その約半分が、"公儀橋"でした。大阪の橋の数は江戸より少なく200程度の橋しかなかった。でも大阪の方が八百八橋といわれる理由は、九割以上が、町人自身で架けた"町人橋"だったからではないでしょうか」と杉本さんの説明。江戸期、大阪の公儀橋は12、残りはすべて町人橋であり、大阪の町衆の力を再認識させられる。「公儀橋」は、幕府が管理し、建築費も管理費もすべて負担する。大阪の街の中でも要衝に限られたが、中でも高麗橋は重要な場所であった。
 高麗橋の通りでは、元禄時代に三越百貨店の前身である三井呉服店や三井両替店が営業をはじめ、呉服屋、糸屋、べっこう屋、ぬり道具屋などが軒を連ねていた。西日本の街道の起点であり、旅人や買い物客などで、交通の盛んな場所だった。明治に入るまでは、橋の西詰には高札といって、幕府から民衆への公報、法律や条例などお触書などが立てられていたという。
 橋は、当初は木桁橋で老朽化や火事などで何度か修復や架け替えがされ、1870年(明治3年)には、全国で3番目、大阪で初めての鉄橋として竣工され、"くろがね橋"の愛称があった。「現在の橋は、1929年(昭和4)に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられたもので、親柱は、もともと西詰にあった矢倉屋敷を模しています」と、逆側の東詰に案内されると、そこには、「里程元標跡顕彰碑」と、擬宝珠のレプリカがあった。現在の橋の高欄にもデザインとして復元されている形だ。杉本さんは、その擬宝珠をさすりながら、「擬宝珠という名は、まさに"ねぎぼうず"からきているようですが、江戸期から重要な公儀橋には、この擬宝珠がかぶせられていました。木の橋の老朽化を防ぐ役目もあったのかもしれません」。

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