東横堀川界隈
大阪最古の城下町で、新旧の本物に出会う
大阪市では最古の堀川、東横堀川。大阪城の築城の際、外濠として1585年(天正13)に掘られた。キタの土佐堀川から分流してミナミの道頓堀まで、南北に2.2キロを結び、14の橋がかかる。
大阪で最も古い城下町であるこの界隈の活性化を目指し、まちづくり活動を先導しているのが杉本容子さんである。人なつこい笑顔が印象的な杉本さんに「まずはクルーズを楽しんでください」と誘われ、八軒家浜船着場で、10人乗りの小型客船「浪切天神1号」に乗り込んだ。
神殿を思わせる水の回廊―橋のミュージアム劇場を堪能する 大川の流れにのって西へ、中之島公園の剣先を見送りながら、天神橋をくぐり土佐堀川へ入る。分流を左折すると、東横堀川である。
「葭屋橋」が入場ゲートの役割を担う。阪神高速道路1号線が覆いかぶさるため、開放的な雰囲気がなくなるのが残念だ。が、逆に暑い時期には心地よい影をつくる。道路を支える太い円柱が両岸近くに規則的に現れ、独特な半屋外空間があたかも神殿のようにも思える。
「橋の上に、マルやシカクの形をした絵図がありますが、何だと思いますか? 実は、船の標識なんです。船は右側通行なんですよ」と言う杉本さんは、数年前、船の運転免許を取得した。「教習所では、漁業に携わるような男性がほとんどで、若い女性は私ひとりでした」。免許を取ろうと思ったきっかけは?「船に乗る人は水上のことに詳しいけれど、陸のことをよく知らない。船に乗らない人は、その逆。だから、水陸、両方の視点を持ちたかったんです」。水上ツアーの案内役・付き人としても、船着場への船の発着やお客様の安全確保の点で、知識が役に立つようだ。


東横堀川は現在、公園・川・高速道路と分かれているが、もとはこのすべてが川幅だったという。空が広く、大きくゆったり流れていた昔の東横堀川を思い浮かべる。
クルージングは、風が心地よく、街の様子がいつもと違って見える。見上げる橋の眺めはなおさらだ。「今橋は、江戸時代に架かったんですが、その時、"今"できたから"今橋"と名づけられました。今宮なども同様です」。進行方向には、橋のアーチがいくつも待ち構えている。
歴史的要衝として有名な「高麗橋」。船から見上げると、この石橋はより風格を感じさせ、橋の"美"を再認識する。と、船は急にスピードを緩めた。行く手を遮る青い塀のようなものはいったい・・・・・・?
「水門ですね。右手の上の赤信号は、車道と同じで"止まれ"の意味です。水門は、使うのに許可は要りませんが、3日前までに水門事務所に申請書を出し予約しなくてはなりません」と、杉本さんが説明する。
東横堀川水門は、水位の差を調節し、船を運航させる役割を担う。さらに、東横堀川と道頓堀川の水質浄化のため、水質のいい大川からより多くの水が流れ込むよう調整している。高潮対策の目的もあるという。2001年3月に現在の水門が完成し、道頓堀川水門と対になって機能している。
知恵と技術を結集して出来たんだなぁ、なるほど、と思って聞いていると、後方に水が噴出してきた。「この噴水は"みをつくし"の形になるように工夫されているんです」。言われてみれば、そう見えるような・・・・・・。「間もなく下からもう一つの水門が上がってきます。水門が上がる途中で上を船が通ると船底をすって危険なので、噴水が出ているんです」と巧みなガイドが楽しく、"水門待ち"の時間もあっという間だった。ようやく、前方の水門は観音開きとなって船を招き入れる。

それぞれの橋を味わいながら 平野橋、大手橋。次々と橋をくぐる。橋の裏面のデザインはすべて違って面白い。
「気付かれましたか? 石橋、鉄橋、石橋、鉄橋と交互になっていて、変化をもたそうと、大阪市が考案したそうです。あっ、見えますでしょうか? 進行方向右手に、1箇所だけ、石の護岸が今も残っています。自然の草が生えていて、昭和の初期頃のものかもしれません」。




重厚な雰囲気の橋が近づいてきた。「本町橋」である。1913年(大正2)に完成。市内の現役で一番古い橋だ。このビスの打ち方、今の技術ではもうできないという。
このあたりから、農人橋まで、川筋が左に曲線S字カーブを描き「本町のまがり」と名づけられている。なぜ、ここだけ曲がっているか? その理由に3つの説があるという。1、浄国寺があり、寺地を避けたため。2、大阪城外堀として敵の侵入を困難にするため。3、昔から川筋が曲がっていたため。杉本さんは、その真相を知るため、大阪歴史博物館の学芸員に調べてもらったが、「結局わからなかったんです」とため息をつく。曲がり角では水流が渦を巻いて水難事故が多いため、地元の人が"曲がり淵地蔵尊"を祀っている。
だんだん高速道路が川筋すべてに覆いかぶさる形になっていく。この天井や柱に照明を施し、パルテノン神殿風にしたり、伏見稲荷のように柱を全部赤く見せたりと、遊び心満載の提案が幾度もなされてきた。2009年は、高速道路を星空に見立て、大阪城や通天閣を星座として映し出したライトアップが本町橋北側に出現した。アートの実験劇場として、楽しい試みを是非続けてほしい。
船は農人橋まで来てUターン。2009年7月にオープンした、東岸にある本町橋の仮設の船着場まで戻る。タイミングよく、てきぱきと解説する杉本さんに感心していると、「まち歩きは立ち止まれますが、クルーズでは、船がどんどん進みますから、風景にあわせて次々とガイドをしないといけない。コツが要るんです」と真顔で答えてくれた。
古い建築物が家具のショールームに ここから、まち歩きである。
本町橋の東詰、すぐ前にそびえるのはホテル「シティプラザ大阪」。旧大阪国際ホテルの跡地に、2006年にオープンした。1階の「カフェパオ」のテラスには、天然温泉の足湯「泉」が開放されている。昔は、西町奉行所の土地であり、今は同敷地内に、大阪商工会議所、マイドームおおさかも建つ。
川沿いに少し南下すると、通りから見ると2階建て、川からは3階建ての古い建物。1階の小さな空間は小さなワークショップができるフリースペースになっている。
「あっ、きらきらタイムだ」と杉本さん。川面に太陽光が反射して、壁がきらきら光る。ゆらゆらとした水の動きを映してなんとも綺麗で楽しい。「なかなか、出会えないんですよね」と、杉本さんは嬉々としてデジカメで動画撮影を始めた。
2階は、「うたたね」という家具・小物屋さんである。主に木材を素材とした、机、椅子、小皿やスプーン、一輪ざしやアクセサリーなど、一点一点手作り感あふれる作品が並ぶ。何ともほっとさせられる店だ。ショールームの奥には川に面した作業場がある。インテリアの専門誌にも掲載されており、遠方からわざわざ足を運ぶお客様も少なくない。ほとんどオーダーメイドらしい。杉本さんもここがお気に入りで、「私も、お膳にもなるミニサイズの机を、イメージや寸法など伝えて作ってもらったんですよ」。
代表の山極博史(やまぎわひろふみ)さんは、「"うたたね"という店名は、もの作りのスピード感を表しており、のんびり、ゆっくり、うたたねできるほど落ち着ける雰囲気を大切にしたい、という意味がこもっています。木の味わいを損なわないよう、仕上げはニスではなくオイルフィニッシュにしています」と、やはりのんびり話す。1999年に立ち上げ、2002年にここに移転。「交通の便が良く、ゆっくり家具を見てもらえるスペースを探しており、この建物に出会った。もう壊されるというので、オーナーに掛け合ったんです。都心ながら、ゴチャゴチャしていないまちの雰囲気も気に入りました」。
商品のネーミングが楽しい。例えば「nene」という椅子は、殿様の膝置きのような形で、秀吉の妻の名前をとったという。ハガキ挿しの置物は「トビー」。おちゃめな感じが出ている。まるで隠れ家のような小さなショールームは、このまちにとてもよく似合っている。


同年代に誕生した、「本町橋」と「ゼー六」「本町橋」は、公儀橋の1つで、船場のメインストリートであった本町通りと大阪城を直結していた。1913年(大正2)に、市電の開通事業に伴い鉄橋化され今日に至る。なかなかしゃれたデザインだ。
「この本町通をずっと西にいくと"木津川橋"があったのですが、双子のようにデザインがほぼ同じでした。かつてシティプラザ大阪の場所に大阪府庁が2年間だけあり、1874年(明治7)に木津川橋に隣接する江之子島に移ったので、旧府庁の表玄関にあったギリシャ神殿風のデザインを参考にしたのではないかと考えています」と杉本さんが説明する。
本町橋と同じ年代に創業したのが、喫茶・アイスクリーム屋の「ゼー六」である。
「有名なアイスモナカを試食しましょう」と道端から注文。バニラ味のアイスにパリッと薄くて白いモナカ地の素朴な味わいがたまらない。「10個以上で夏は20~30分、冬は40~50分」と張り紙がある。テイクアウトでのモナカの持つ時間である。ドライアイスを用いないため、モナカをぎゅっとくっつけて、新聞紙で4重にも5重にもくるむと、互いの冷気で溶けにくくなるという。特に暑い時期は、会社の社長秘書をはじめ、ビジネスマンや地元の人が絶えず買いに来るそうだ。

濱田屋珈琲―季節の自然を愛でながら コロンビアをベースにした自家焙煎コーヒー。そのコーヒー風味をしっかり盛り込んだシュークリーム。本町橋の西北詰には、ゆったりとコーヒーやスイーツを楽しめる贅沢な空間がある。杉本さんもおすすめの店だ。
1986年(昭和61)開店。オーナーの濱田淑子(はまだとしこ)さんが、郊外の美しい自然をイメージしながら都心で60件ほど探しに探した結果、気に入った場所である。
「自家焙煎珈琲濱田屋」というマークや店のデザイン・レイアウトは、甥のデザイナー村田智明(ちあき)さんに依頼した。「全面窓ガラスをつくらせました。ここから窓を通して外の緑を見ていると、自然が額縁に入っているみたいでしょ」。外観より、店内で座って外を眺めた方が、より周辺の緑が美しく思え、あたかも森の中にいるようにも感じられるから不思議である。窓際からは川や船、本町橋も見える。
珈琲はパンチのあるコロンビアベースだ。「深煎り、中煎り、浅煎りとタイプを分けて焙煎しています。一級品しか選ばず、状態を確認しながら使用しているので、味には自信があります」と力強く話す濱田さん。
スイーツを模索していた頃、とあるケーキ屋で「南蛮窯バッケン」と出会い、「この窯なら、自慢の洋菓子がつくれるはずだ」と入手先を確かめ、すぐに発注した。「密閉度が高く、細かい工程での温度設定がきっちりできる魔法の窯です。シュークリームのシューは、牛乳しか使わない生地でもふわっと美味しく焼けます」。高級なカルピスバターを使用し自信のコーヒーをクリームに入れた"珈琲シュークリーム"を名物にしようと考えた。いただいてみると、とろーりと滑らかなクリームには、しっかりコーヒーの風味が。さっくりしたシューとあわせて、やみつきになりそうだ。
「以前に川向こうにあった桜の木が、工事で抜かれてしまって、本当にさみしいんです。春の愉しみがうんと減ってしまいました」と、濱田さんは、景観があってこそ人の心のやすらぎがあるのだと主張する。まちの魅力を借景とした、オリジナルコーヒーやスイーツが自慢のカフェ。まち歩きをより愉しむには休憩に是非こんな店を選びたい。



本町橋から高麗橋まで―川辺のガイドツアー 本町橋西詰から北上した「安土町1丁目」「備後町1丁目」の表示前。杉本さんに促されて背中合わせになっているビルとビルの隙間をのぞく。何もない細い空間がずっと向こうまで続いているが、意味がありそうだ。
「太閤秀吉の時代に下水整備がされました。道路と道路に挟まれたブロックでは、北側にある建物は玄関が北向き、南半分にある建物は南向きで、建物が背中合わせになっており、その境の部分に下水溝が掘られたんです」。これを背割下水、あるいは太閤下水といい、今でも東横堀川界隈のあちこちに残っているそうだ。
さらに北上。大手橋の南側に、クリーム色の雄大な建物が目立つ。「岸本瓦町邸」、国登録有形文化財である。1831年(天保2)創業の鉄商、岸本商店5代目岸本吉左衛門の本邸として、1931年(昭和6)に建設された。鉄筋コンクリート造り、屋根はフラット、壁面もシンプル、照明や窓など細部とあわせて、モダンな匠の気品を放つ。「設計が住友工作部の笹川慎一で、北浜の旧住友ビルディングと同じ石を使用しているので、雰囲気が似ています。企業のいわゆる迎賓館として今も使われているのですが、貴重なお宝や芸術品が多々収蔵されているらしく、いつもシャッターが下りているんです」と、残念そうに杉本さんは言う。年に1回でも是非公開してほしいと願う。
「前方にある大手橋は、西詰が行き止まりになっており、"思案橋"という別名があります。全国各地に思案橋があり、遊里の入り口にあって、遊びに行くかどうか思案したというケースが多いのですが、大阪は違うみたいですね」。他の説も聞いたことがある。秀吉が五奉行の一人に橋の名前をつけるよう命じたが、思案しても決まらなかったという説、曾呂利新左衛門が同様の依頼を受け思案したためという説。西側の通りが直進していないのは、城に直接通じる道を造らなかったという軍事上の配慮があったという推測もあり、いかにも城下町らしい。
東横堀川沿いの公園へ、階段で下りる。昔から、潮の満ち引きに関係なく水際まで下りられるように、階段状になっている。「"がんぎ"と呼ばれています」「え?」「"がんぎ(雁木)"です」。聞きなれない言葉だが、大阪の水辺の特徴である。
公園内に水門事務所があり、時期やイベント限定で、水門の開閉を建物から見学できる。
テラスが心地よい「ダイニング・アップリケ」 平野橋東詰からやや南側。東横堀川にテラスが張り出している。「レストランの特等席があのテラスなんですよ」と、杉本さんが必ず紹介する店である。
針原雅幸さん、由美子さん夫妻のご家族で経営している「ダイニング・アップリケ」。地下は雅幸さんの事務所、1階は店舗・テラスで、由美子さんがオーナーである。長女がシェフをしていたが、2009年12月で結婚のため退職する。長男は父親を手伝いながら、厨房にも立つ。2階に家族で住む。
2年以上、探しに探した挙句出会ったのが、この物件であった。由美子さんは「昔から証券取引や金融などで活気があった北浜界隈で店を持つことが夢だったの。それに家族の住まいと店を兼ねたかったから」。もとは60坪の酒屋が3等分して売りに出されていた。「注文住宅ですが、テラスを思いついて作ったのは、私じゃなくて主人なんですよ」。
工事の下見に来たのが、偶然、天神祭の宵宮の日。どんどこ船が東横堀川を通った時、雅幸さんがひらめいたそうだ。工事の担当者に頼み込んで、テラスの出入り口を作るため窓を足元まで切ってもらい、強度補強で鉄骨をより多く入れてもらうなど設計しなおしてもらった。雅幸さんは「内装はほとんど私の手づくりでね。床や壁貼り、電気工事、トイレ設置や、テラスのクーラーも」と照れくさそうに、あちこち見せてくれた。
2002年9月にオープン。今はかなりの賑わいでリピーターが多い。
テイクアウト用サンドイッチ「北浜SAND」は、本当においしい。国産肉のハンバーグに淡路島直送タマネギ、無添加で手作りのイギリス風食パンを使用。一口では頬張れないほどの具のボリュームで、ハンバーグのジューシーで懐かしい味と歯ごたえのあるパンがよく合う。お客様のリクエストから生まれ、会議や勉強会などの機会で、注文が多い。「20年以上つくり続けてきたハンバーグがこんな形でブレイクするなんて・・・・・・」と喜ぶ由美子さん。実は「大阪のおかあさん」の異名をもち、「出会いに感謝し、毎日を大切にしていきたいね」とあたたかく優しく話を聞いてくれる。それが心に残る味付けになっている。


高麗橋―大阪交通の要衝「江戸時代、東京つまり江戸では、大阪より橋の数が多く、その約半分が、"公儀橋"でした。大阪の橋の数は江戸より少なく200程度の橋しかなかった。でも大阪の方が八百八橋といわれる理由は、九割以上が、町人自身で架けた"町人橋"だったからではないでしょうか」と杉本さんの説明。江戸期、大阪の公儀橋は12、残りはすべて町人橋であり、大阪の町衆の力を再認識させられる。「公儀橋」は、幕府が管理し、建築費も管理費もすべて負担する。大阪の街の中でも要衝に限られたが、中でも高麗橋は重要な場所であった。
高麗橋の通りでは、元禄時代に三越百貨店の前身である三井呉服店や三井両替店が営業をはじめ、呉服屋、糸屋、べっこう屋、ぬり道具屋などが軒を連ねていた。西日本の街道の起点であり、旅人や買い物客などで、交通の盛んな場所だった。明治に入るまでは、橋の西詰には高札といって、幕府から民衆への公報、法律や条例などお触書などが立てられていたという。
橋は、当初は木桁橋で老朽化や火事などで何度か修復や架け替えがされ、1870年(明治3年)には、全国で3番目、大阪で初めての鉄橋として竣工され、"くろがね橋"の愛称があった。「現在の橋は、1929年(昭和4)に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられたもので、親柱は、もともと西詰にあった矢倉屋敷を模しています」と、逆側の東詰に案内されると、そこには、「里程元標跡顕彰碑」と、擬宝珠のレプリカがあった。現在の橋の高欄にもデザインとして復元されている形だ。杉本さんは、その擬宝珠をさすりながら、「擬宝珠という名は、まさに"ねぎぼうず"からきているようですが、江戸期から重要な公儀橋には、この擬宝珠がかぶせられていました。木の橋の老朽化を防ぐ役目もあったのかもしれません」。


渋谷利兵衛商店-鰹節と結納の老舗 高麗橋の西詰に、渋谷利兵衛商店がある。1724年(享保9)創業。現在の店主、9代目の渋谷善雄さんが「ようこそ」と、接客の合間に店の歩みを話してくれた。「もとは、奈良の大宇陀で布関係を扱い、次は、鰹節屋として、高麗橋西詰西へ入る、つまり今の場所へ移ってきたと聞いています」。
店頭に1881年(明治14)頃の店先の様子が描かれた絵図が飾ってある。鰹節といっしょに、"鰒(あわび)のし"もあつかっていた。「鰒のかつら干しですね。それらをのしたものを"のし"と言っていました。食べ物として売っていたのかもしれません。当時は、庶民の間ではまだ、結納という儀式がなく、庶民の文化の中で、めでたい食べ物という位置づけになっていたのかもしれませんね」と説明する渋谷さん、話し方も上品で、どこか"公家"のような雰囲気を感じる。昔のことは資料がなく、聞き伝えだという。
「7代目がブライダル産業をつくったんです。結婚式は仏前が多かったのですが、昭和初期頃だったか、当時大阪ではじめての洋風ホテルであった"大阪ホテル"に、御霊神社の神主さんとうちの7代目とで、結婚式に必要なものを運び込んで、神前結婚式を行いました。当時「甲子園ホテル」まで、用具一式を載せたリヤカーを押して運んだこともあるんですよ」。花嫁学校や結婚式場も営んでいた。結納屋は、特に戦前は、ほとんど独占企業で他にはなかったそうだ。
店舗は、阪神大震災までは木造の、昔ながらの商店としての建物であった。「小さい頃は、このあたりは瓦屋根が並んでいたけど、周辺がだんだん洋館になって、私のところも、震災後、耐震規制のため建て替えざるをえなかったんやねえ」と懐かしそうに、木造の店構えの写真に目をやる渋谷さん。



現在は、水引による結納用品を中心に制作している。店内は、色鮮やかな松竹梅や鶴亀がずらり。美術工芸品の美術館のようで、見ていて飽きない。「船場の人は、結納品は渋谷さんで、というステイタスがあるようです」と杉本さんが話す。
水引の結び方について、「渋谷流」がある。
よくよく見ると、結び目の上下が逆で、昔からこの結び方だそうだ。
奥の間には、掛け軸に、高麗橋の鉄橋の絵が。くろがね橋の頃のまちの様子が見て取れる。「橋の電燈上部の飾りの実物が、ここにあるんです」と聞いて見て驚いた。蔵の中から出てきたそうだ。実際触るとかなり重かった。
水引制作の体験が面白い。まち歩きコースのお客様が楽しめるようにと、渋谷さんが考案したもので、3本ずつ束ねてある水引を組んでいくと、キーホルダーになる。「順番に近いところから折って、くぐらすだけです」と杉本さんに最初は手伝ってもらうが、要領がわかれば、10分ほどででき上がった。何ともかわいい! 華やかな自作の土産は珍しく、家族に見せびらかす愉しみもできた。


本物が集まる、スローな街「東横堀川水辺再生協議会」通称「e―よこ会」は、水の回廊の一つである東横堀川界隈の活性化の一環で、大阪商工会議所と地元の住民、商店、企業関係者などで2006年から活動している。立ち上げ当初、杉本さんは、シンクタンクの所員として、界隈の魅力向上策の立案を依頼され、一緒に活動を進めた。
まずは、毎月14日を「イイヨコの日」とし、橋や公園の掃除を実施。フラワーポットも設置管理し、川辺のイベントも企画した。川を挟んだ東西の地域はあまり交流がなかったが、活動を通してつながっていったという。講演会や記念コンサート、地元小学生向けの講座、船上から花見を楽しむクルーズ、まち歩きコースも手探りで開発し、今ではプログラムも多彩に、開催頻度も増えてきた。
杉本さんは、この界隈をよく知らなかった。「最初は正直、こんな場所が、他地域から来た人に楽しめるようになるのだろうかと思いました」。しかし実際に人に会ったり調べたりするたび、貴重なお宝やエピソードに出会って、興味が倍増してきたという。「地元に長い住民の方々、老舗の人も社長さんも、優しく温かく接してくださるのが嬉しい。高速の高架下で一見アングラな雰囲気ですが、新しくオープンする店は、自信があるからこそ、この街を選ぶようです。だから、本物が集まってくる。街を知れば知るほど、東横堀川界隈が私の新たな故郷になってきました。それで、自分が愛する街を多くの人に好きになってほしいと思って、ガイドやまちづくり活動をしています」と、瞳を輝かせて語る。杉本さんが街の案内をする時、いつも楽しそうにニコニコしている理由がようやくわかった。
「船着場は悲願でした。東横堀川には、船着場がまったくなかったんです。いずれ本格的な常設の船着場にしてほしい。また川沿いから、堤防が邪魔して水辺があまり見えないので、もっと親水性のある公園にすることもあわせて、水辺整備の関係部署に働きかけたい」。
今回、杉本さんとのまち歩きでこの界隈の印象が随分変わった。かなり前だが、中之島から道頓堀まで、歌舞伎役者の船乗り込みに便乗したことがある。東京からきた憧れの歌舞伎役者がせっかく通るのに、東横堀川を下る時、雰囲気も暗く、たいした見所がないので本当に情けなく残念に思った。しかし今では、独特の味わいが感じられ、何度も訪れたいと思うほどになったのは、予想外であった。
古い歴史の上に新しい文化が加わっているエリアである。美しいアーチを描く橋々はまちの語り部。水辺は、独特の落ち着いた色合いで、水門は時の流れを緩やかにする。昔ながらの地形が歴史をひもとかせる。マイペースだが確かなものづくりやサービスを提供する店、代々受け継がれた技を継承する老舗には、根強いファンが通い、この界隈に愛着を持って活動している人たちがいる。
スローな心地よさがある街。歴史の足跡をひとつひとつ確かめながら、東横堀川界隈にしかない空気感を味わいたい。
〔参考文献〕
松村博『大阪の橋』松籟社
「大阪人」2008年11月号(特集:東横堀川)
〔カリスマのプロフィール〕
杉本容子(すぎもと・ようこ)
1975年神奈川県生まれ。大阪大学大学院工学研究科環境工学専攻博士前期課程修了。工学博士。
東横堀川水辺再生協議会幹事。(株)ダン計画研究所研究主査。大阪府府民文化部都市魅力創造局都市魅力課特任主査。
まちづくりコンサルタントとして大阪の水辺再生や歴史的街なみづくりに関わるかたわら、アフターエイトに大阪のまちをおもしろくするNPO活動に積極的に参加。2009年に新設された大阪府都市魅力創造局にて、民間からの特別任用により、都市魅力を創造する施策の企画調整を担当。